「ユーゴスラヴィア連邦の貧困化」

ミシェル・チョスドフスキー(カナダ)

ホームページ概要表示に戻る

ユーゴスラビア連邦の瓦解とボスニア・ヘルツェゴビナの新植民地化

 

旧ユーゴ連邦の崩壊は、国際債権団がユーゴ連邦政府に強要したマクロ経済政策と特別の関係がある。

チトー・ユーゴスラヴィア連邦大統領が死去した1980年から数段階によって西側諸国により指向された経済改革政は、

ユーゴ連邦の国家経済を崩壊させ、工業部門の瓦解と福祉国家の分裂を生み出した。

チトーが死ぬ直前に始まった第一段階のマクロ経済改革は政治的・経済的破産、即ち成長の低下、債務の増加、債務返

済負担の加重、貨幣の価値下落をもたらし、ユーゴ国民の生活水準は急激に下落した。このような経済危機は、政治的

安定を脅かし、民族間の対立も増幅させ、民族紛争へと導入させられることになる。

西側諸国(NATO)のユーゴ連邦解体戦略

1982年、ミルカ・プラニンチ連邦首相はIMFに「手形割引率を引き上げ、レーガノミックス色の素地を一層多く導入す

ることに約束させられた」。経済改革と「戦略的構造調整」は同時に推進された。極秘文書「『米国の対ユーゴ政策』・NSD

D・national security decision directive 国家安全保障大統領令133号・1984年」(82年の東欧に関するNSDD54と類似し、

社会主義政党とその政府を転覆させるために「静かな革命」を実行し、東欧諸国を市場経済に編入させる、というものであ

った。

バルカン半島を市場経済体制へと編入させる

1983年、IMFの支援の基に導入された第2次経済安定化政策は、貿易の自由化と銀行貸し出しの凍結措置によって

激しいインフレーションを引き起こした。

86年、ミクリチ連邦首相は、景気浮揚の経済対策に失敗して数ヵ月で辞任。

88年、コバチ財務長官は「5月のインフレーション抑制計画」を実施。更にインフレは悪化させる。10月、ヴォイヴォディナ

自治州とモンテネグロ共和国でデモが発生。経済は破産状態に陥る。

89年、アンテ・マルコヴィチ連邦首相は親米政策を志向する。

国際債権団は「構造調整プログラム」を作成して提示

1989年このプログラムでは、企業法にある自主管理社会種の根幹である「労働者の基本組織・BOAL」の廃止、公共

企業制度の撤廃を要求した。

「企業改革政策」を施行し、製造業に対する規制を撤廃。公企業の民営化を促進させる。この過程で、電力・精油・機械・石油化学会社の幾つかが倒産、

「貿易機構の規制撤廃」で輸入消費財が氾濫して債務は増える一方で、ユーゴ国内の生産体系は無力化し、倒産が続出した。公共交通及び道路管理体系も、小規模私企業に分割された。このとき整理・倒産企業は、解雇者に解雇手当を支給せず。

同89年、「金融運用法」を施行し、債務履行能力がない企業を破産させる。国際債権団は破産宣告手続きを通して負債企業の資産を譲渡させ、精算が可能となる。産業に対する貸し出しを禁止する。

同年、「外国人投資法」を施行させは、外国資本が産業・金融・保険・サービス部門に無制限に投資することができる道を切り開く。特に「社会資本の転換と運営に関する法」および、90年の「社会資本法」は公企業を外国資本に売却することを始め、公企業の奪取を合法化させることになる。

ユーゴ連邦の金融機関を潰して西側諸国が権限を掌握

89年と90年に成立した新たな「金融関係法」は、「組合銀行」の破産を促進し、ユーゴ連邦にある全銀行の半分以上が閉鎖された。不採算企業への貸し出しをも凍結した。

90年の上半期、公企業側は破産を免れるため、全産業人口の20%、50万人の労働者の賃金支払いを停止する。

90年6月、保険、銀行の民営化を促進し、調整のために「非銀行系の金融機関の仲介会社、投資管理企業、保険会社などが設立された。

ユーゴ連邦の金融構造を形成していた、「中央銀行 ― 共和国と自治州の銀行 ― 商業銀行」の三重構造は、世界銀行の指導の下で半数が閉鎖され、金融事業は崩壊させられた。

IMFのマクロ経済政策導入により、産業成長率は、従来の経済政策の66年~79年は年間7.1%だったが、マクロ経済実施の80年~87年は、2.8%に下落し、87年~88年は0%、90年はマイナス10.6と激減した。91年はマイナス21%に減少。

GDPの成長率は、90年はマイナス7.5%、91年、マイナス15%、90年~93年の4年間でGDPはマイナス50%とな

った。

 

「企業倒産」

 

1989年、248の企業が破産、8万9400人の労働者が解雇される。

90年、9ヵ月の間に889の企業と52万5000人の労働者が解雇される。(全産業人口270万人中62万人が解雇)

90年9月、「世界銀行」は、全7531の企業のうち、エネルギー、重工業、金属加工、林業、繊維部門などの2435社は不

健全企業(債務不履行企業)であると推定する。この推定により、130万人の労働者は不安定な位置に置かれることに

なる。その結果、既に解雇された60万人と合わせると、270万人のうち190万人が過剰労働と分類された。

マルコヴィチ首相はワシントンを訪問後に経済改革に着手。「通貨の切り下げ、賃金凍結、政府支出削減、自主管理体制の公企業制度撤廃」を実施。ユーゴ連邦を瓦解させることになる。

1990年1月、IMFの「待機性借款・SBA」に関する協約と、世界銀行の「構造調整借款・SALⅡ」を条件とする経済を

始めると、政治的分裂と分離主義運動が加熱していくことになる。

IMFは90年1月に「構造調整プログラム」の導入を要求。これによって電力・精油・機械・石油化学が多数倒産した。さ

に貿易の自由化によって輸入物資が氾濫し、ユーゴ連邦の製造業は停滞した。

さらにGDP5%に該当する財政削減を要求し、89年11月の水準での賃金凍結を要求。物価は継続して上昇したた

め90年の上半期で実質賃金は41%ほど減少することになる。

91年1月、ディナールに対する通貨切り下げを30%追加実施し、その上で物価引き上げも実施する。

「インフレ」;90年は70%を超え、91年は140%にはじまり、悪性インフレはハイパーインフレとなり、2700%に暴騰する。

92年は937%、93年は1134%となる。

「パリクラブ」と「ロンドンクラブ」の債務返済にも縛られることになる。

ディナールの兌換の完全保障、金利自由化、輸入割当制の追加削減を行なう。

国際債権団は、通貨施策を掌握し、中央銀行の貸し出しを禁止する。

連邦政府の予算執行は事実上麻痺し、公共企業に対する投資は中断する。社会福祉及び経済計画も実施不能に陥る。商業貸し出しの規制を撤廃する。

マルコヴィチの緊縮政策に対し、65万人のセルビア労働者は抗議して職場から離脱した。労働組合も一致団結して対抗した。この時点までは、民族差別はなかった。

その後、クロアチアとボスニア・ヘルツェゴヴィナで内戦が勃発するが、NATOはクロアチアとボスニアのムスリム人勢

力側に加担してセルビア人勢力側に空爆を加えて屈服させ「デイトン和平」合意へと持ち込んだ。

1995年のデイトン合意前にIMFと債権団銀行は、200億超の旧ユーゴスラヴィア連邦の債務を次のように分配すると

決める。セルビア・モンテネグロは35%、クロアチアは28%、スロベニアは16%、ボスニア・ヘルツェゴビナは16%、マ

ケドニアは5%。

 

「クロアチア」

 

93年、IMFとの協約に従い、クロアチア政府は財政および決定権は外国の債権団の手に渡ったため、通貨政策を通じて自国の資源を動員することができなくなる。

更に予算削減策に従ったことで、戦後復興の費用は230億ドルと推定されていた戦後復興は困難になる。

IMFのプログラムにより失業率は91年の15.5%、93年には19.1%。

公企業の95%が合弁の株式会社へと転換。政府は、ヨーロッパ復興開発銀行・EBRDと世界銀行の支援の下「企業破産法」が施行され、大規模な国営企業の解体手続きが行なわれ、完全民営化することを明らかにする。

94年10月、貨幣が新しいクナ・kunaに変更される。

 

「マケドニア」

 

公企業は競売され、産業基盤が崩壊する。大々的な失業状態が続いた。

1993年、IMFが「体制転換基金・STF」の一環として導入された経済改革政策は、実質賃金を低下させ、貸し出しを凍結する。ジョージ・ソロスは、国際援助団体とオランダ政府、国際決済銀行・BISを抱き込み、新規融資を債権団への返済に充てさせる。

第2段階の構造調整は、94年にIMFとブランコ・クルベンコフスキー首相と交渉する。国際債権団、この年、半分に削減した政府予算を、更に減らさなければならないと主張する。支払い能力がない企業は閉鎖し、余分な労働者を解雇するよう勧告する。

1994年、IMFは「マケドニアにある主要な企業のうちの多くは不健全企業であり、その数は4000社に上る」と主張した。

マケドニア財務省は、「金利が高く、如何なる優良企業であってもそのまま利子を返済するのは不可能である」と発表。

95年、開設した株式市場は民営化機構の付属機関のように運営され、展望がある資産はずべて売りに出された。

リュベ・トルペフスキー財務長官は「世界銀行とIMFは、経済改革が実施された様々な国の中で、マケドニアほど成功

した事例はなかった、と評価している」と自慢する。

世界銀行は、マケドニアの無料医療制度が崩壊したことを受け、「資本主義的」医療保険制度の導入を提案した。

 

「ボスニア・ヘルツェゴビナ」

 

NATO軍がボスニアのセルビア人勢力に空爆を加えている最中の95年8月、世界銀行と石油メジャーのアモコ社と幾つかの企業はボスニアのディナリデス地域の油田探査作業をはじめた。探査に参加した世界銀行と多国籍企業は、進行中の戦争に参加した政府に、最近の探査結果を通報することは出来ないと主張する。

サバ川の対岸のクロアチア領内にもかなりの油田があるものと知られていたが、デイトン合意後米軍が管轄する地域となる。

デイトン和平後、西側諸国はボスニアにNATO占領軍・IFORを派遣して監視の下に置き、ボスニアの政治的・経済的主権を認めない再建計画を発表する。

米国とEUはデイトン協定に従ってボスニアに植民地総督府UNMIBHを設け、最高代表は「ボスニア連邦」と、「ボスニア・セルビア人共和国」の双方の政府を統治し、全市民の問題に対して絶対的な行政能力を保持する。

「国際民間警察隊」は、国連事務総長が亡命者出身の人物を任命。15ヵ国から1700人あまりの警察がザグレブからボスニアに派遣される。

「ボスニア憲法」デイトン合意で制定。

西側諸国の利害関係が挿入された。ボスニアの主要な要職は、西側の金融機関が非ボスニア人を任命。

制憲議会も憲法改定も市民団体との協議も認めず。

議会は、実質的な権限を奪われ、最高代表・HRと亡命者出身の顧問が率いる代理政権が握る。

経済政策の決定権は、IMFと世界銀行そしてヨーロッパ復興開発銀行・EBRDの手に渡り、IMFは中央銀行を管轄し、

ヨーロッパ復興開発銀行はエネルギー、水資源、通信、道路を管理する公企業委員会を管轄することになる。

新たな債務は許可されず、外貨準備が十分な時のみ貨幣の発行が許され、国内資源の動員も許可されず。

中央銀行は、憲法第7条で総裁はボスニア以外の国から任命し、「最初の6年間は、貨幣の発行を通じた貸し出しを拡

大することは出来ない」と規定され、主要な機能が剥奪される。

1995年、ボスニア政府は復興費用が470億ドルに上るものと推定したが、西側の債権団は30億ドルの支援を約束したのみ。しかも実際に渡されたのはその一部で、IFORの現地経費と国際債権団の延滞債務を返済するのに使われる。NATO軍の維持にかかる費用の大部分は、ボスニア政府が負担することになった。

それ以外の新規借款は、繰り越した債務を返済するための目的のみに提供された。オランダ政府が提供した3700万ドルも債務返済に回された。このシステムで債務返済のために新規借款し、またその債務返済のために新規借款するという悪循環が始まった。再建のための借款は許可されなかったのである。このように、ボスニアの復興は、実質的に不可能な状態に置かれた。

民族境界線」はボスニア連合とボスニア・セルビア人共和国の間に設定された。

 

「結論」

 

1980年以前のユーゴの経済的発展は、60年~80年の20年間は、GDP年6.1%の成長率を記録し、医療は無料であり、医師は人口550人当たり1人、識字率は91%、平均寿命は72歳だった。

しかし、「新自由主義」の旗の下、ユーゴスラヴィアに適用されたマクロ経済は、ユーゴ連邦国全体を破滅へと追いやったのである。

「構造調整」がユーゴスラヴィアに及ぼした政治・社会的影響は、意図的に隠蔽され、文化的・民族的・宗教的葛藤だけが強調され、人々に何が起こったのかさえ分からないようにした。紛争による破壊のみでなく、その後に起こったことがユーゴスラヴィアに苦痛を与えた。

「マクロ経済の改革政策」は、人々の暮らしの基盤を破壊し、働く権利と食糧、家庭と文化的・民族的同質性を根こそぎ奪い、国境により、法制度が変わり、公企業は倒産へと追い込まれ、金融制度は瓦解し、社会保障制度は崩壊した。

西側諸国の欺瞞チョスドフスキーが分析したようにこれが西側諸国(NATO)の正義と公正だとして、ユーゴスラヴィア連邦解体の真実は隠蔽され、歴史的な事実が曲解させられ、究極的には民族間の社会的葛藤の心的原因として歪曲して伝えられた。

◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎