ユーゴスラヴィア連邦解体戦争およびウクライナ戦争
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(5)軍事・兵器
2,* 「コソヴォ解放軍・KLA」
4,* 「クロアチア共和国軍のクライナ・セルビア人共和国潰滅作戦」
5,* 「稲妻作戦」
6,* 「‘95夏作戦」
8,* 「オペレーション・デリバリット・フォース(周到な軍事作戦)」
9,* 「オペレーション・アライド・フォース(同盟の力作戦)」
10,* 「NATO軍の人道的武力介入-ユーゴ・コソヴォ空爆」
11,* 「劣化ウラン弾」
12,* 「クラスター爆弾・集束爆弾」
ユーゴ連邦人民軍は大戦時の「パルチザン」の系譜
第2次大戦において、ヨシプ・ブロズ・チトー率いる「パルチザン」が、ユーゴスラヴィア王国を占領したナチス・ドイツ同盟軍との間でゲリラ戦を戦い抜いて祖国を勝利に導いた。このパルチザンを統合した「反ファシスト・ユーゴ解放軍」の系譜をひいたユーゴ連邦人民軍は、国家の成立に重要な役割を果たしたことから、ユーゴスラヴィア連邦人民共和国の維持に存立の基盤を置いた。
チトー大統領は「連邦人民軍」の幹部の民族別均等化を図る
当初の連邦人民軍の幹部の構成は、反ファシスト・ユーゴ解放軍時代と同様にセルビア人とモンテネグロ人が多かったが、クロアチア人のチトーは大戦後に積極的に諸民族の均等化を図り、司令官クラスを民族別に過不足なく配分するようにした。しかも、連邦人民軍の将兵はすべての民族で構成されていたため、特定の共和国を支持する民族主義に左右されるようなことは起こり難い組織であった。
連邦人民軍はユーゴ連邦に軍管区制を敷き、東部軍管区、中部軍管区、南部軍管区、沿岸部軍管区としていたが、80年代に各共和国単位の軍管区制に改革し、スロヴェニア軍管区、クロアチア軍管区、セルビア軍管区、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ軍管区、マケドニア軍管区とした。この時期の司令官の民族別出身を見ると、セルビア軍管区はマケドニア人のアレクサンダル・スビルコフスキ司令官、スロヴェニア軍管区はセルビア人のスベトザール・ヴィシュニッチ司令官、クロアチア軍管区はスロヴェニア人のコンラッド・コルシェク司令官、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ軍管区はクロアチア人のアントン・ルケジッチ司令官、マケドニア軍管区はセルビア人のジヴォタ・アブラモヴィチ司令官、空軍はクロアチア人のズボレンコ・ユーレヴィチ司令官という出自への配分に見られるように、民族への配慮が行き届いていた。その後さらに軍管区体制に変更が加えられ、第1軍管区・セルビア・モンテネグロ、第2軍管区・ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、第3軍管区・マケドニア、第4軍管区・クロアチア、第5軍管区・スロヴェニアとなった。
「全人民防衛体制」を敷き全土に武器庫を設置する
この間、1968年にワルシャワ条約機構が「プラハの春」を潰したチェコ事件が起こる。ワルシャワ条約機構の戦車部隊がチェコスロヴァキアを蹂躙する事態を見てユーゴ連邦政府は危機感を抱き、全国民によるゲリラ戦を含む総力戦を想定した「トータル・ナショナル・ディフェンス(全人民防衛体制)」を採用した。74年の改正憲法では全人民防衛体制が明確に規定され、すべての国民に防衛の義務が課せられて各共和国にはそれぞれ領土防衛隊が設置された。領土防衛隊に属する者は、ジュネーブ条約の適用対象とするために、すべて連邦人民軍の一員として認めるとされた。この体制を有効ならしめるために各共和国には随所に武器と弾薬を分散して配備されることになったが、自主管理組織にも防衛委員会が設置されて小火器程度の武器を管理させた。この体制が、後の内戦において各共和国の防衛隊や民兵組織が武器を奪取することを容易にした。
ユーゴ連邦人民軍はヨーロッパの中では侮りがたい陣容を擁していた
ユーゴ連邦人民軍の正規軍は陸・海・空の3軍で18万人を擁し、陸軍が主力で14万人、空軍が3万人、海軍が1万人で構成されていた。陸軍は戦車部隊、ミサイル部隊、砲兵隊が主力であり、空軍は主要な機種としてソ連製のMiG21および29戦闘機を採用し、海軍は長い海岸線を防備するためのフリゲート艦、ミサイル艦、潜水艦を擁した。ユーゴ連邦には連邦人民軍の他に治安警察軍があり、全人民防衛体制によって国民のすべてが防衛任務につくことが義務づけられていたことから、西側にとっては看過できない軍事大国であり、弱体化の対象となった。1990年前後のヨーロッパ地域では、ソ連、イギリス、フランス、ドイツに次ぐ軍事力を備えていると見られていたからである。
連邦人民軍に課せられたユーゴ連邦体制の維持
1990年1月のユーゴ連邦共産主義者同盟の臨時大会で、連邦の党組織そのものが瓦解する。ミロシェヴィチ・セルビア大統領は連邦体制を維持する方針に拘っていたが、スロヴェニアのクチャン大統領およびクロアチアのトゥジマン大統領は連邦制を解消して国家連合に移行するよう強硬に主張して譲らずに会場から退席したことから、ユーゴスラヴィア共産主義者同盟の連邦体制は事実上崩壊した。そのため、ユーゴ連邦人民軍のみが連邦組織として、「友愛と統一」の下にユーゴスラヴィア連邦の社会主義の理念の維持を図る唯一の組織となるという奇妙な構図となった。
91年に入るとカディエヴィチ国防相とアジッチ参謀総長は、共産主義者同盟の解体がユーゴ連邦の崩
壊へと至ることを危惧して警戒心を高め、それを阻止する方針を提案する。カディエヴィチ国防相は3月の
連邦幹部会で、「1,将来に関する政治的対話の継続を要求する。2,全土に非常事態態勢を導入する。
3,連邦人民軍の戦闘準備態勢を整える」などを採用するよう主張した。しかし、連邦幹部会でクロアチア
選出のメシッチ幹部会員が強硬に反対したため、連邦人民軍が提案した連邦体制を維持する非常事態
勢が採用されることはなかった。ともあれ、連邦人民軍参謀本部は次のような声明を発表した。「1,国境変
更を認めない。2,内戦の発生は許さない。3,政党間の暴力行為を許さない」というものである。
スロヴェニアとクロアチアの分離独立に対処する方策を奪われた連邦人民軍
1991年6月25日、スロヴェニア共和国とクロアチア共和国が分離独立を宣言すると、ユーゴ連邦人民軍・JNAは微妙な立場に置かれることになった。分離独立を宣言したスロヴェニア政府とクロアチア政府は、軍管区制によって配備されていた連邦人民軍を侵略軍として非難し、武器を置いて兵舎を明け渡せ、と要求し始めたからである。スロヴェニア共和国は、独立宣言後の武力衝突に備えて連邦人民軍に対抗する軍事組織として国防隊を編成していた。スロヴェニア政府は独立宣言の2日後の6月27日、国防隊を動員し、イタリアとハンガリーとの国境の入国管理事務所と関税事務所および空港などの連邦政府所管の施設30ヵ所を接収する。それに対し、連邦政府は第5軍管区の連邦人民軍は連邦政府の施設を接収から復権するために、2000人ほどの兵員を国境地帯と空港に向けて移動させた。連邦人民軍は声明に盛り込んだように、スロヴェニア国防隊との本格的な戦闘をする意思を持っておらず、連邦政府の重要施設を占拠したスロヴェニア国防隊を排除し、連邦政府の権限を回復することのみを目的として部隊を派遣したのである。しかし、この曖昧な態度が連邦人民軍を窮地に陥れることになる。スロヴェニア国防隊は既に3万5000人の兵員を擁しており、その兵力を動員して戦闘態勢を整え、連邦人民軍を迎え撃ったからである。連邦人民軍は、派遣された兵員の内1500人が捕虜になるという惨めな結末を迎えて「10日戦争」と言われる紛争に敗北した。
連邦人民軍がスロヴェニアで敗北した背景には、国際社会がスロヴェニア共和国の主張に共調し、連邦人民軍を侵略軍として非難を浴びせたことがあった。国際社会の非難に行動を抑制された連邦人民軍は大部隊を派遣することをためらい、僅かな兵員で対処することになったからである。命運をかけて独立を勝ち取ろうとしていたスロヴェニア国防隊の戦闘意欲に対するに、連邦政府の権益を護る治安維持程度の戦闘意識しかなかったユーゴ連邦人民軍が敗退するのは必然でもあった。
多民族で構成された連邦人民軍は武力衝突の抑止を任務とした
1991年7月に欧州共同体・ECが紛争の仲介に乗り出し、連邦人民軍とスロヴェニア政府軍との間に「ブリオニ協定」を締結させた。停戦に合意した連邦人民軍はスロヴェニアからの撤収を決める。この停戦合意とスロヴェニアからの撤収は、事実上ユーゴ連邦人民軍がスロヴェニア共和国の独立を認めたことを意味した。それがユーゴ連邦の統一維持の主張の根拠を薄弱にさせ、後に続いたクロアチア共和国の独立推進を容易にした。このときの連邦人民軍を統括していた主要なメンバーは、カディエヴィチ国防相がクロアチア出身のユーゴスラヴィア人、スタネ・ブロヴェト国防次官がスロヴェニア人、ブラゴイェ・アジチ参謀総長がボスニアのセルビア人、ズヴォンコ・ユリェヴィチ空軍司令官がクロアチア人、スロヴェニアを管轄する第5軍管区司令官のコンラド・コルシェク将軍がスロヴェニア人であり、連邦幹部会議長はクロアチア人のメシッチ、連邦首相もクロアチア人のマルコヴィチであった。この顔ぶれから類推できるように、連邦政府や連邦人民軍が特定の民族のための行動を取るようなことは起こり得なかった。しかし、欧米の政府やメディアはユーゴ連邦の維持に務めた連邦政府と連邦人民軍の対応を厳しく非難した。
クロアチア駐屯の連邦人民軍も侵略軍として攻撃される
クロアチア共和国でもスロヴェニア共和国と同様、きたるべき独立宣言に備えて防衛隊を組織し、大量の武器を密輸して各所に配備していた。さらに、連邦人民軍からクロアチア出身の兵士は櫛の歯が欠けるように離脱し、クロアチア防衛隊や民兵組織に加わっていった。強化されたクロアチア防衛隊は連邦人民軍を侵略軍として非難し、兵舎を包囲して電気や水道などのインフラを止めた上で執拗な攻撃を加え、武器を引き渡した上でクロアチアから撤退するよう要求した。
連邦人民軍は自らの役割を連邦体制の維持と紛争の調停者として位置づけていたものの、連邦人民軍自体をクロアチア防衛隊の攻撃から護る必要に迫られた。91年9月、連邦人民軍はセルビアとボスニアに駐屯していた戦車部隊を新にクロアチアに投入する。その途次のヴコヴァルにおいて既にセルビア人住民を排除していたクロアチア共和国の国防部隊や民兵組織が連邦軍の救援のための戦車の進行を妨げて激しく抵抗したことから、連邦人民軍はこのクロアチア共和国の部隊や民兵組織を排除しなければ進めなくなり、戦闘の過程でヴコヴァルに壊滅的な破壊をもたらした。この行動が、連邦人民軍のセルビア寄りの非道な行為として扱われ、国際社会の非難を浴びることになる。このときのクロアチア防衛隊は、全人民防衛体制で配備された武器庫から押収したものや密輸したドイツやソ連やチェコ製の地対空ミサイルや大砲、迫撃砲、機関銃などを装備し、連邦人民軍と対等か一部では凌駕しているほどに充実していた。そのため、このヴコヴァルにおける戦闘は激しいものとなったが、とにもかくにも連邦人民軍はクロアチア共和国側の戦闘部隊を排除して第5軍管区の司令部の救援に向かうこととなった。
92年1月、ヴァンス国連特使(米元国務長官)の仲介により、セルビア人居住地に国連保護地域が設定され、2月に国連安保理決議743が採択されて国連保護軍・UNPROFORが配備された。この決議を受けて連邦人民軍はクロアチア防衛隊の包囲を解いて撤収する。この間の1992年1月15日に、EC諸国はスロヴェニア共和国とクロアチア共和国の独立を承認した。EC諸国がクロアチアの独立を承認したことで、クロアチア政府とクロアチア・セルビア人勢力との対立は先鋭化し、連邦人民軍が撤収した後は両勢力の軍事組織が剥き出しで対峙することになる。
連邦人民軍は民族主義に陥らずに地域住民を保護するために行動した
のちに、元連邦人民軍のアレクサンダル・ヴァシリエヴィチ将軍は、旧ユーゴ国際戦犯法廷・ICTYのニース検察官の尋問に対し、クロアチアでの「連邦人民軍の目的は、先ず第一に連邦人民軍をクロアチア軍の兵営封鎖から身を護ること、次いで91年8月から9月にかけては危険に晒された地域の住民を保護すること、その中にはセルビア人を保護することも含まれていた。連邦人民軍は決して危機を解決する方法として、武力で押し付けるようなことはしなかった」と証言している。
ボスニア・ヘルツェゴヴィナでも連邦人民軍は侵略軍として排撃される
一方、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ政府は、91年6月にスロヴェニアとクロアチアが独立宣言を発したのを見て、ユーゴ連邦からの分離独立を模索し始め、10月にはボスニア議会がセルビア人議員が反対する中でユーゴ連邦からの独立を謳った文書を採択した。その陰でイゼトベゴヴィチ・ボスニア大統領は、「愛国同盟」を結成してムスリム人勢力の武装化を進めていた。92年1月に国際社会がスロヴェニアとクロアチアの独立を承認すると、ボスニア政府は31%を占めるセルビア系住民の反対を意に介さず、2月29日に住民投票を強行して3月3日には独立を宣言した。ボスニアのセルビア系住民は、これに対抗して「ボスニア・ヘルツェゴヴィナ・セルビア人共和国」を設立する。
連邦人民軍は、ボスニアにおいても初期の段階ではボスニア政府と協力して民族間の紛争の調停役に徹していた。しかし、ムスリム人兵士やクロアチア人兵士が連邦人民軍から離脱してそれぞれに防衛軍を強化し、「全人民防衛体制」によって地域に設置されていた武器庫から武器を奪取し、連邦人民軍を侵略軍として非難しつつ第2軍管区の兵営を襲撃した。ムスリム人およびクロアチア人の両勢力の兵士の離脱によってセルビア人兵士が多数となっていた連邦人民軍は、襲撃に対抗する過程でムスリム人が支配するボスニア政府と対立するようになって行った。ムスリム人の防衛軍と連邦人民軍が武力衝突をするようになると、欧州安保協力会議・CSCEはボスニアにおける武力衝突の責任を全て連邦人民軍に帰し、連邦人民軍を侵略軍扱いしてボスニアからの撤退を要求した。
ユーゴ連邦の解体に伴って連邦人民軍は改編される
ボスニア駐屯第2軍管区の連邦人民軍は、国際社会の非難への対処策として92年5月5日にセルビア出身兵士とモンテネグロ出身兵士を引き上げると表明。その上で、ユーゴ連邦人民軍を解消して「ユーゴスラヴィア連邦軍」として編成すると宣言した。この宣言によって、ユーゴスラヴィア連邦体制の維持を旨としていた連邦人民軍は消滅することになった。人民軍の本隊は、ユーゴ連邦への撤収にあたって主要な武器を帯同して引き揚げたものの、この過程でボスニア出身のセルビア人兵士は重火器や戦車や装甲車などを多数確保してセルビア人勢力の軍事組織と合流した。ラトコ・ムラディッチはボスニア出身のセルビア人で連邦人民軍の将官だったが、残留してボスニア・セルビア人勢力の総司令官となる。ボスニアからユーゴ連邦軍が撤収したことによって、連邦人民軍には存在した民族主義を否定する思想は希薄となり、民族別の防衛組織は対手の民族を敵視して領域確保闘争に明け暮れることになる。
各共和国は邪魔な連邦人民軍を侵略軍と非難して排除を企てる
ユーゴ連邦人民軍は、第2次大戦時の「反ファシズム・ユーゴ解放軍」の後継組織として、ユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国の防衛と維持を主たる任務としていたため、最終段階までその任務に忠実であろうとした。しかし、各共和国は独立の過程で連邦体制の維持組織であった軍管区駐屯の連邦人民軍は障害物になりかねなかったため、侵略軍として排除の対象とした。NATO諸国も連邦人民軍が内戦の一方に加担する侵略軍であると非難し続けたため、連邦人民軍は行動が制約され、主任務である国防および連邦内の紛争を予防し、解決するための実力組織として機能することを困難にした。ブレジンスキー米大統領補佐官が78年の社会学会で指摘したように、連邦人民軍は内部紛争に対処するには脆弱な組織だったのである。
<参照;ユーゴスラヴィア連邦、パルチザン>
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セルビア王朝からオスマン帝国へと歴史に翻弄されたコソヴォ
コソヴォはセルビアのネマニッチ王朝の揺籃の地である。セルビア正教会が発足した地でもある。14世紀、セルビア王国はバルカンを北進するオスマン帝国とコソヴォ・ポーリェで戦い、1389年6月28日に敗北し、王朝は消滅した。コソヴォは、その後5世紀あまりにわたってオスマン帝国に支配されることになる。イスラム教に改宗したアルバニア系住民はオスマン帝国の支配期に多数移り住み、コソヴォで過半数を占めるようになって行く。1459年にはセルビアそのものがオスマン帝国に支配されることになる。
この後、オスマン帝国は1463年にはボスニアを支配下に置き、1483年にはヘルツェゴヴィナも支配下に置いた。さらに、オスマン帝国は1529年に第1次ウィーン包囲を行ない、1683年には第2次ウィーン包囲を行なった。このころがオスマン帝国の最盛期となる。18世紀にはいるとロシアが南下政策の下にオスマン帝国に対したびたび戦いを挑むようになった。1877年に始めた露土戦争ではオスマン帝国がロシア軍に押し込まれコンスタンチノーブル近郊まで攻め込まれた。オスマン帝国は講和を申し入れることになるが、このときに結ばれたサンステファノ条約とロンドン条約でセルビアとモンテネグロ、ルーマニアがオスマン帝国からの独立が認められ、ブルガリアは自治公国となった。しかしこの条約によってボスニア・ヘルツェゴヴィナはハプスブルク帝国が支配下に置き1908年にはこれを併合した。これに対しボスニアには反ハプスブルク帝国への抵抗組織として秘密結社が叢生した。この間ブルガリアは勃興し、帝国を名乗るようになる。
第1次バルカン戦争でセルビアはオスマン帝国からコソヴォを奪還する
1912年、セルビア王国はモンテネグロ王国、ブルガリア帝国、ギリシア王国とで「バルカン同盟」を形成し、オスマン帝国に対して第1次バルカン戦争を宣戦してコソヴォおよびマケドニアを奪還する。そののち、コソヴォへのセルビア人の移住が進んだ。
コソヴォは第1次大戦後もユーゴスラヴィア王国の領土となり、第2次大戦時にはイタリアに占領され、アルバニアに併合された。しかし、ナチス・ドイツおよび同盟国側が敗北したことで、大戦後に建国したユーゴスラヴィア連邦セルビア共和国内に自治州として組み込まれる。1974年に改定された連邦憲法によって、コソヴォ自治州にも他の共和国並みの自治権限が与えられた。
ユーゴ連邦内で最貧国から脱出できなかったコソヴォは暴動を繰り返す
自治権は拡大したものの、ユーゴ連邦内の最貧地区から脱却できなかったコソヴォ自治州のアルバニア系住民は、処遇の改善要求に絡めて独立への願望を内在化させた暴動を繰り返した。
もとより、少数派としてのセルビア人住民が唯々としてそれを受け入れていたわけではなく、アルバニア系住民の迫害を止めさせるようセルビア政府に要求して度々大規模なデモをコソヴォ自治州やセルビア共和国などで繰り返した。1987年1月にセルビア共和国の幹部会議長就いたミロシェヴィチはコソヴォ紛争の調停に赴くが、そのとき目の当たりにしたのはアルバニア系住民の警察官によるセルビア人住民への殴打などの迫害であった。そこで、ミロシェヴィチはセルビア幹部会内部の反対を押し切り、89年3月に憲法を修正してコソヴォ自治州の行政権限を縮減した。これに対し、コソヴォでは激しい抗議デモが起こされた。
ベルリンの壁が瓦解したことはコソヴォ自治州にも強い影響を与える
1989年11月にベルリンの壁が瓦解し、東欧諸国はこれをきっかけに社会主義体制から資本主義体制へと雪崩を打って転換していった。ユーゴスラヴィア連邦は東欧諸国とは異なり独自の自主管理社会主義制度をとっていたものの、やはりこの影響を受けることになる。ユーゴ連邦の中では比較的富裕だったスロヴェニアとクロアチアは、連邦から分離独立した方が有益だと思量して独立の策動を密かに進めていた。
セルビア共和国内の自治州であったコソヴォでも独立志向が強まり、ベルリンの壁崩壊直後の89年12月に「コソヴォ民主連盟」を結成し、イブラヒム・ルゴヴァが党首に就いた。ルゴヴァは武力闘争はしないものの政治的・社会的には強硬路線を貫き、「セルビア人がいなくなるか、無視できるくらいに少数にして、熟した果実が落ちるように、コソヴォの独立を達成する」と宣明した。そして、コソヴォをアルバニア系住民のみの地域とすることを企図し、セルビア人住民に迫害を加えて自治州から離脱するように仕向けた。アルバニア系住民の嫌がらせや迫害が続いたため、1981年には15%・30万人を占めていたセルビア人とモンテネグロ人は、91年には10%・20万人に減少した。
1991年6月25日にクロアチアとスロヴェニアがユーゴ連邦からの分離独立を宣言すると、連邦制を維持しようとしていたセルビア共和国が政治的余裕を失っている事態に乗じ、ルゴヴァたちは9月に独立の是非を問う住民投票を強行し、アルバニア系住民の圧倒的賛成を得て独立を宣言する。このアルバニア系住民の行動は国際的な関心を呼ばず、コソヴォの独立を認めたのはアルバニアとマレーシアのみであった。ルゴヴァは委細構わず、92年5月にセルビア政府の禁止令を無視して自治州政府の大統領に就任するなど、着々と支配体制を拡張していった。
青年過激派が武力による独立を目指してコソヴォ解放軍・KLAを結成する 一方、アルバニア系住民の若手の武闘派は、ルゴヴァの政治的交渉による独立に飽きたらずに武力による独立の獲得を企図し、88年にコソヴォ解放軍・KLAを結成していた。解放軍は結成すると直ぐにセルビア人住民に対するテロ行為を始めたものの、その粗暴な行動がアルバニア系住民からも支持されなかったために組織を拡大することはままならなかった。
91年6月25日にスロヴェニアとクロアチアが独立を宣言し、次いで92年3月3日にボスニアがそれに追随したことから、ユーゴ連邦解体戦争となる武力衝突が激化する。コソヴォ解放軍の主なメンバーはこの紛争を好機と捉え、クロアチアおよびボスニアの国防隊や民兵組織に入り込み、ある者は正規軍兵士としてある者は民兵として戦闘経験を積むことにする。95年にクロアチア内戦がクロアチア共和国政府軍の勝利に終わり、ボスニア内戦もNATO軍の軍事介入によって「デイトン・パリ協定」が成立すると、コソヴォ解放軍・KLAのメンバーはコソヴォ自治州に帰還して組織体制を強化し、すぐさまセルビア人住民など少数民族への迫害やテロ活動を始めた。
米国はコソヴォ解放軍を支援するためにプリシュティナに「情報・文化センター」を設置
米政府は、このコソヴォ解放軍の分離独立闘争を支えるために、「デイトン・パリ協定」が成立した翌年の96年6月には早くもコソヴォ自治州の州都プリシュティナに「情報・文化センター」の事務所開設をミロシェヴィチ・セルビア大統領に認めさせた。米国は情報・文化センターなるものを世界各国に設置しているが、この事務所は主として米CIAなどの情報機関が情報収集や工作の活動拠点としているところである。コンブルム米国務次官補は、プリシュティナの情報・文化センターの開所に当たって「米国がコソヴォ問題に関与し続けることの一例である」と述べた。この発言は、CIAがコソヴォ解放軍を操ることを示唆したものである。
コソヴォ解放軍・KLAは体制転換に失敗したアルバニアから武器を大量に入手して闘争を活発化させる
1997年に隣国アルバニアが政治的・経済的混乱に陥ると、コソヴォ解放軍・KLAはどさくさに紛れてアルバニアの武器と弾薬を大量に入手し、直ちに本格的な武力闘争を開始した。KLAの攻撃の矛先は、セルビア共和国の治安機関やセルビア人住民だけでなく、KLAの武力闘争方針を支持しない穏健派アルバニア系住民にも向けられた。一方のユーゴ連邦政府は、かつてのクロアチアとボスニアの内戦で「セルビア悪」の汚名を着せられて政治的・経済的困難に陥ったことから、コソヴォ解放軍の武力攻撃に対して有効な対処策を取れないでいた。
ユーゴ連邦政府がジレンマに陥っていた98年2月にゲルバード米特使がコソヴォを訪れ、アルバニア系住民の穏健派の主要なメンバーを集めた場で「コソヴォ解放軍はテロリスト集団」と発言する。ユーゴ連邦政府はゲルバード米特使の発言をコソヴォ解放軍への鎮圧を容認するものと受け取り、治安部隊を送り込んでKLAへの鎮圧行動を強化した。
欧米列強は再びセルビア悪を唱えて経済制裁を科す
ところが、国際社会はユーゴ連邦の鎮圧活動をアルバニア系住民への迫害だとして非難し始め、国連安保理は98年3月に武器輸出禁止などの経済制裁をユーゴ連邦に課す決議1160を採択する。コソヴォ解放軍・KLAは国際社会の対応に力を得て、5月にはコソヴォ自治州の25%を支配下に置くほどに勢力を拡大した。EUは、コソヴォ解放軍による武力攻撃の実態を無視して5月に外相会議を開いてNATO軍に軍事介入を準備するよう要請し、6月にはユーゴ連邦への新規投資を禁止する追加制裁を決定した。G8もミロシェヴィチ・ユーゴ大統領にアルバニア系住民との対話を求めるとともに、経済制裁の発動を含む共同声明を発表する。米政府はユーゴ連邦の在米資産の凍結および新規投資を禁じる措置をとるとともに、ホルブルック特使をユーゴスラヴィアに送り込み、ユーゴ連邦には治安部隊を撤収するよう要求する一方で、CIAの手引きでコソヴォ解放軍の幹部と会い、彼らを「自由の戦士」と讃えた。米国に認知されたコソヴォ解放軍は勢いづき、外国人傭兵をも導入して武力闘争を一層活発化させた。それに対抗するセルビア治安部隊の鎮圧行動も厳しいものとなる。国際社会はコソヴォ解放軍の武力闘争行為には触れず、ユーゴ連邦の鎮圧行動を厳しく批判し続けた。
コソヴォ解放軍の軍資金は麻薬の売買益やディアスポラのアルバニア人の拠金
コソヴォ解放軍の軍資金には、ディアスポラのアルバニア人の拠金やアルバニア・マフィアが取り仕切るアフガニスタン産のアヘンの売買益などが充てられた。一方、コソヴォ自治州の穏健といわれるルゴヴァ派のブヤル・ブコシは、スイスで「コソヴォ共和国」なる亡命政府を設立して首相を僭称し、スイスに銀行口座を開設してアルバニア系ディアスポラに資金の供与を義務づけしたり、アヘンの売却益をマネーロンダリングして基金を集めた。合法、非合法の軍資金を得たコソヴォ解放軍・KLAや、周辺諸国から加わった太平洋旅団やアフガニスタン戦争で養成されたムジャヒディーンなどの戦闘員は、アルバニアに設置された軍事訓練所で米国、欧州、イスラエルの軍事請負会社の訓練を受け、戦闘力を強化していった。
コソヴォ解放軍が追いつめられると欧米は仲介に乗り出す
コソヴォ解放軍・KLAは7月にはコソヴォのマリシェヴォを臨時首都に定めるなど攻勢を強め、バラチェヴェツの炭坑を制圧し、オラホヴァツ、ヴェリカ・ホチャ、クレツカなどを着々と支配して行った。ユーゴ連邦としてはためらいがちであったが、ここに至って鎮圧部隊の投入を増大させて反撃に転じた。9月に入るとユーゴ連邦の治安部隊の鎮圧行動が効果を上げ始め、コソヴォ解放軍は次第に追いつめられるようになる。
この展開に危惧を覚えた米政府は、ホルブルック特使を再三ベオグラードに送り込み、ミロシェヴィチ・ユーゴ大統領に対して攻撃を止めるよう求め、「要求に従わなければ、NATO軍の軍事行動によってユーゴ連邦が破壊されることになるだろう」と圧力をかけた。他方、ロシアのイワノフ外相もユーゴスラヴィアを訪れ、停戦と欧州安全保障協力機構・OSCEの検証団の受け入れを助言する。ユーゴ連邦のプラトヴィチ首相はこれを受け入れ、OSCE検証団のコソヴォへの導入を受容すると表明する。OSCEはこの提案を一旦拒否するが直ぐに撤回すると、すぐさまコソヴォ停戦合意検証団・KVMを組織して2000人の調査・検証団員の派遣を決定した。しかし、KVMの団長に曰く付きのウィリアム・ウォーカー米外交官が就いたことで、コソヴォ問題の帰趨は決定的となった。ウォーカーは駐エルサルバドル米大使だった際、独裁政権の殺人部隊「アトラカトル大隊」を支援し、時の独裁政権を批判していた教会を襲撃させてイエズス会士とシスターや子どもの殺害を容認し、擁護した経歴を持つ人物である。
ラチャク村の虐殺事件を捏造したウォーカーKVM団長
検証団は10月末から順次コソヴォ自治州に1600人の団員を送り込むことになるが、ウォーカーKVM団長はその中に米CIAや英MI6などの情報部員100人余りを潜り込ませた。彼らに与えられた任務は、「1,ユーゴ連邦の治安部隊を貶める工作をすること。2,NATO軍の爆撃の標的となる構造物を調査すること。3,コソヴォ解放軍・KLAに衛星電話を与え、NATO軍が空爆を実行する際の標的を通報させること」にあった。
99年1月15日に遅れてコソヴォ自治州に入ったウォーカーKVM団長は検証団員やメディアの記者たちとともにラチャク村を見下ろす丘で、コソヴォ解放軍とセルビア警察部隊との戦闘を観戦した。その日の戦闘は午前と午後の2回にわたって行なわれ、セルビア警察部隊がコソヴォ解放軍を撃退して終結した。セルビア警察部隊はその日の戦果を発表すると、ラチャク村から撤収する。戦闘の一部始終を監視していたウォ-カーKVM団長は、その場では何も言わずに引き揚げた。その後、ル・モンド紙やフィガロ紙の記者たちが戦闘現場を見て回ったが、市民の姿はなく、のちに虐殺があったとされる遺体を見ることもなかった。まもなく、コソヴォ解放軍はセルビア警察部隊が撤収した後を襲ってラチャク村を再占拠する。
翌1月16日、コソヴォ解放軍はメディアの記者たちをラチャク村の戦闘地点に案内して45人の遺体を披瀝し、セルビア警察部隊が虐殺した民間人の犠牲者だと説明した。午後になってウォーカーKVM団長は現場に着くと、検証することなく「私が個人的に見たものから、この犯罪を大虐殺、人間に対する罪だと評すること、またセルビア政府と治安部隊を告発することに躊躇いはしない」と語り、セルビア悪の印象を世界に流布した。これを受けたオルブライト米国務長官は、ミロシェヴィチ・ユーゴ大統領を「1938年のアドルフ・ヒトラー」になぞらえ、「1999年にこうした野蛮な民族浄化が行なわれることを見過ごすことはできない」と激しく非難するコメントを発し、NATO軍の空爆を誘導した。
4日後の1月19日、フィンランドの検視団が民間人虐殺説を否定する検視結果を発表する。フランスのル・モンド紙は、28日にOSCE検証団員などの証言を引用してコソヴォ解放軍の偽装の疑いを報じたが、米ワシントン・ポスト紙はユーゴ連邦の治安部隊の偽装と報じた。
メディアの報道が混乱する中、このときはNATO軍の空爆には至らず、米・英・仏・独・伊・露の6ヵ国で構成する「連絡調整グループ」が1月29日にロンドンで会合を開き、両当事者に対し「1,停戦に合意すること。2,両者は対話を開始すること。3,コソヴォの地位問題は3年後に協議すること。4,コソヴォ自治州にNATO軍主体の平和維持部隊を駐留させること」などを紛争当事者に通告するとともに、「ランブイエ和平交渉」を開くことを決定した。
コソヴォの独立に固執したコソヴォ解放軍のタチ代表
1999年2月6日、連絡調整グループが仲介する和平交渉はフランスのランブイエ城でメディアのアクセスを遠ざけ、ソラナNATO事務総長が介在して始められた。ユーゴ連邦側はミルティノヴィチ・セルビア大統領が代表となり、アルバニア系住民の代表は米政府の意向によってコソヴォ解放軍の若い30歳のタチ政治局長が指名され、ルゴヴァ・コソヴォ自治州大統領は副代表に落とされた。
連絡調整グループは、セルビア悪説が支配的な雰囲気であったにもかかわらず和平の達成に尽力し、和平案を提示する。和平案の骨子は、「1,コソヴォ自治州の地位問題は3年後に最終解決を図る第3者機関で協議する。2,自治州政府と議会は選挙を通じて設置する。3,自治州に立法府、行政府、司法府を創設する。4,自治政府は、徴税、財政、司法、教育、文化、経済開発、通信、道路などに対する権限を含む高度な自治を確立する。5,各民族の権利を保護する。6,政治犯の恩赦、釈放を行なう。7,ユーゴ連邦政府は、コソヴォ自治州から軍隊の大部分と民兵を撤退させる。8,コソヴォ解放軍は武装解除する。9,ユーゴ連邦や周辺国の領土は保全する。10,合意履行を監視する委員会の設置と、OSCEやその他の国際機関を参加させる。11,コソヴォ自治州にNATO軍主体の平和維持部隊を駐留させる。12,コソヴォにおける政府資産である教育機関、病院、天然資源ならびに生産施設すべてを民営化する」などである。
独立へ至る道筋の保証を求めているコソヴォ解放軍のタチ代表は、「領土保全」の項目は受け入れられないとして和平案を拒否する。ユーゴ連邦側は、「コソヴォ自治州へのNATO軍の駐留」は受け入れられないとして難色を示した。交渉は難航し、3日間延長したもののまとまらなかったために、和平の基本合意と第2回の交渉を行なうことを決めて中断する。基本合意は、「1,コソヴォ自治州の自治権拡大とユーゴ連邦の一体性を尊重する。2,アルバニア系住民による今後3年間の暫定自治を認める」というものである。この基本合意の意味するところをコソヴォ解放軍が受け入れる可能性は薄いと見られた。
和平交渉を意図的に潰したオルブライト米国務長官
第2回交渉は3月15日から始められたが、交渉の場に乗り込んだオルブライト米国務長官が主導権を握り、米国の交渉の常套手段である土壇場になってハードルを挙げるという手法が行使された。即ち、独立実現の確定に拘るコソヴォ解放軍のタチ代表を言い含めて和平案への合意を表明させる一方で、ユーゴ連邦側には「NATO軍をユーゴスラヴィア全域に駐留させて費用の一端を負担せよ」との「付属文書B」の軍事条項を突きつけて、和平案を拒否するように仕向けた。「付属文書B」は「連絡調整グループ」の6ヵ国の中のNATOの武力攻撃に積極的だったブレア英首相以外の交渉担当者にも秘匿されていたため、アルバニア系住民が柔軟な対応をしたのに比し、和平案を拒否したユーゴ連邦が傲慢さを示したものと受け取られ、セルビア悪が国際社会に再び印象づけられた。オルブライト米国務長官は、巧に和平が成立しなかった責任をユーゴ連邦側に被せ、「人道的介入」の名を冠して国際社会の思考を撹乱し、国連安保理の決議を回避した軍事行動もやむなしとの雰囲気を作り上げ、NATO軍による「ユーゴ・コソヴォ空爆」へと導いた。
「付属文書B」の主な内容、「1,NATO軍は支援、訓練、作戦に必要とされるあらゆる地域および施設での野営、作戦行動、分宿、利用の権利を含む、車輌、船舶、航空機とともに、関連する空域と領海を含むユーゴスラヴィア連邦共和国の全域で自由に妨げられることのない通行と妨害のない出入りを享受する。2,NATO軍は各個人を拘留し、可及的速やかに然るべき政府当局者に引き渡す権限が与えられる。3,ユーゴ連邦当局は使用される空域、港湾、道路におけるあらゆる移動に対し、優先的に使用を許可し、その使用料や税金も免除する」などのNATO軍による占領条項というべきものであった。
ユーゴ連邦解体戦争の最終章としてのユーゴ・コソヴォ空爆
99年3月24日、NATO軍は国連安保理に図ることなく「人道的介入」の名を冠した「アライド・フォース作戦」を発動して空爆を開始する。当初は、悪天候などで爆撃目標を確認することに困難をきたしたが、コソヴォ解放軍が先に渡された衛生電話でNATO軍に爆撃目標の情報を提供した。
空爆が開始されておよそ2週間後の4月8日に、ドイツの「ターゲス・ツァイトゥンク」紙が付属文書Bの存在を報じたことによって、国際社会はオルブライト米国務長官が和平交渉を潰した作為を知ることになったが、NATO軍は既に発動した空爆を緩めることはなかった。
人道的介入ではなく懲罰的な軍事力を行使したNATO軍
78日間に及んだNATO軍のユーゴ・コソヴォ空爆は熾烈を極めた。米国防総省の発表によると、軍事目標以外の施設では、テレビ・ラジオ局の45%、ドナウ川沿岸の道路70%を破壊、橋50%を破壊、鉄道は100%破壊、製油施設の10%を破壊、コソヴォへの連絡道路の50%を破壊、炭素繊維爆弾によってベオグラードの電気系統の70%を停電状態とし、セルビア共和国全体の35%を停電状態にした、というものである。国防総省の成果には取り上げられていないが、大統領公邸、セルビア社会党本部、在外公館も19ヵ所が爆撃の被害を受け、中国大使館にもミサイル3発が撃ち込まれて死傷者を出した。
99年6月9日、NATO軍とユーゴ連邦との間に停戦協定が結ばれ、78日間続けられたNATO軍の空爆はユーゴ連邦が屈服する形で停止した。国連安保理で決議された和平に関する協定の主な内容は、「1,セルビア軍はコソヴォ自治州から撤退する。2,コソヴォ解放軍・KLAは武装解除する。3,国連の暫定統治機構の下に自治州の暫定政府を設置する。4,NATO軍主体の国際部隊をコソヴォ自治州に配置する。5,ユーゴ連邦の主権と領土保全を再確認する。6,国連事務総長は暫定統治をする国際的文民組織を設置する。7,コソヴォ自治州とセルビアとの国境地帯の5キロを非武装の安全地帯とする」というものである。
ランブイエ和平交渉の際、オルブライト米国務長官がユーゴ連邦に突きつけた連邦全土へのNATO軍進駐を求める条項は、コソヴォ自治州のみに置き換えられていた。オルブライト米国務長官が突きつけた付属文書Bは、ユーゴ連邦に拒否させてNATO軍の空爆を誘導することのみを目的として挿入した文書であったから、もはや必要とはされなかったのである。
人道的介入の根拠は存在せず
NATO軍の空爆時にコソヴォ自治州の住民80数万人が周辺に脱出し、この事態がユーゴ連邦の非人道的行為を象徴するものとして主要なメディアで報じられた。しかし、避難民の大半はNATO軍の空爆を避けるために脱出した者たちであり、それに加えてコソヴォ解放軍がユーゴ連邦の治安部隊の迫害行為を国際社会に印象づけるために追い出しを図ったものでもあり、またユーゴ連邦の治安部隊の一部と民兵が空爆に対する報復としてアルバニア系住民を迫害した事実が重なって増大したものであった。
ユーゴ・コソヴォ空爆後、NATO軍は米政府が人道的介入の口実にしたコソヴォ自治州での犠牲者数1万人から22万人説について、コソヴォ紛争後に進駐した平和維持軍・KFORが調査を行なった。しかし、紛争による犠牲の証拠となる遺体は1000人弱にとどまった。その後の信頼すべき調査によると、コソヴォ紛争での犠牲者はアルバニア系とセルビア系双方を含めて1500人前後であるとされている。紛争による犠牲者数1500人の多寡の判断には事例による検証が必要とされるが、紛争の事例としては「低強度紛争」に類するものであり、人道的介入の名を冠した大規模な軍事力行使をしなければならないような急迫した事態でなかったのは明白である。
ユーゴ・コソヴォ空爆は欧米列強の権益を護るため
NATO諸国は、表向きコソヴォが急迫した事態下にあるとの言説を繰り返していたにしても、NATO軍そのものが人道上の緊急性なるものを信じていたわけではなかった。ロバートソン英国防相は空爆が開始されたその日に開かれた英国の下院で「99年1月までは、コソヴォ解放軍の方がセルビア当局よりも多くの死者を出していた」と、NATO軍の空爆がセルビア治安部隊の民族浄化の阻止にあったことを否認する証言をした。ウェズリー・クラークNATO軍最高司令官は、「政治家たちが計画したNATO軍の作戦は、セルビア人による民族浄化を防ぐものではなかった。また、セルビアの警察部隊に対する戦争を行なうためのものでもなかった。それが目的ではなかった」と述べた。空爆直後にNATOの平和維持軍・KFORの司令官として進駐したマイケル・ジャクソン英将軍は「われわれはこの国を横断するエネルギー回廊の安全を保障するために、ここに長期にわたって留まるだろう」と述べた。NATO諸国の軍事介入は、コソヴォ解放軍の独立闘争の支援を主要な目的としたのではなく、セルビア治安部隊によるアルバニア系住民への民族浄化を防ぐものでさえなく、西側によるエネルギー回廊を確保するためのユーゴ連邦解体戦争の総仕上げとして、懲罰的なユーゴ・コソヴォ空爆を実行したのである。
コソヴォ解放軍・KLAを温存させたNATO諸国
セルビア治安部隊は停戦協定にともなってコソヴォ自治州から撤収することになったが、進駐したNATO軍主体の平和維持軍・KFORはコソヴォ解放軍の武装解除を形式的にしか行なわなかった。そしてKLAの主力を「コソヴォ防衛隊」に編成替えし、コソヴォ自治州の防衛の任務を担わせることにした。
国連は、「国連コソヴォ暫定統治支援機構・UNMIK」を設置して政治的統括を行なうことになるが、コソヴォ暫定政府を設立してコソヴォ解放軍・KLAの政治局長だった若いタチを暫定首相に任命した。暫定政府首相に就いたタチはKLAの将兵たちを閣僚に任命する。このようにしてNATO諸国は実質的にコソヴォ解放軍を温存させたのである。このことが、コソヴォ解放軍がコソヴォ自治州の独立の延長線上に想定していた「大アルバニア」の実現に向けた周辺への武力闘争を促進させることになる。
コソヴォ自治州の独立と大アルバニアを目指したコソヴォ解放軍
セルビアの治安部隊が撤収すると、コソヴォ防衛隊とコソヴォ解放軍は、防衛の名においてコソヴォ在住のセルビア人住民を追放し始めた。そればかりか、協定でセルビア共和国とコソヴォ自治州の間に設定された幅5キロの非武装地帯を活動拠点とし、セルビア側に侵攻してセルビアの警備兵や市民の殺傷を繰り返した。さらに、コソヴォ自治州暫定政府は大アルバニアの構想を実現させるために、セルビア共和国南部サンジャック地方のアルバニア系住民居住地域およびマケドニア共和国北部のアルバニア系住民居住地域を分離させてコソヴォ自治州と合併させることを企図する。
そこで、先ずセルビア南部のアルバニア系住民居住地域に「プレシェヴォ・ブヤノヴァッツ・メドゥヴェジャ解放軍・LAPBM」を組織させてセルビア共和国から割譲させるべく武力闘争を始める。NATO軍はこのコソヴォ解放軍・KLAの越境攻撃を知りながらKLAには穏やかに諭すのみで、ユーゴ連邦側には報復攻撃は認められないと厳しく通告した。
挫折したコソヴォ解放軍の大アルバニア建設
コソヴォ解放軍のセルビア南部でのサンジャック地方の分離闘争は、セルビア治安部隊の反撃で思うようには進まなかった。そこでコソヴォ解放軍は矛先を転換し、軍備の貧弱なマケドニア共和国内のアルバニア系住民地域に「民族解放軍・NLA」を結成させた。そして01年3月、KLA・NLA連合部隊はアルバニア系住民の保護と権利の獲得を名目にマケドニア領内に侵攻した。マケドニア共和国はユーゴ連邦からの独立を果たしたものの、ユーゴ連邦解体戦争のあおりを受けて経済的困窮に陥っており、92年にユーゴ連邦人民軍が撤収した後の武装を整える余裕がなかった。マケドニア共和国はこのような事態を危惧して国連保護軍の配備を求めていたのだが、国連予防展開軍・UNPREDEPは国際政治力学のあおりを受けてNATOの空爆が始まる直前の1999年2月に撤収してしまっていた。
NATO軍はコソヴォ解放軍の大アルバニア構想を背後から支援する
コソヴォ解放軍・KLAと民族解放軍・NLAは、米国の軍事請負会社などの軍事訓練を受けた上に暗視装置や作戦地図などを授けられていたから、マケドニア共和国軍がこの合同部隊に対抗できるはずもなく、たちまち圧倒される。KLAとNLAの合同部隊は、マケドニア共和国の第2の都市テトヴォの一部を占拠するなど、マケドニアの国土の30%を支配するまでに勢力を拡大して行った。狼狽したマケドニア政府は、ウクライナから武装ヘリの2機の貸与を受け、さらに近隣諸国から武器を調達してこれに対抗した。この間の5月、南セルビアで武装蜂起したプレシェヴォ・ブヤノヴァツ・メドヴェジャ解放軍・LAPBMはユーゴ連邦軍とセルビア警察部隊の大規模な攻勢に敗退した。
7月になると、武装ヘリの投入が効を奏してマケドニア共和国軍は次第に優勢となってKLA・NLAを追い詰めていく。すると、8月にNATOのロバートソン事務総長とEUのソラナ共通外交上級代表がウクライナを訪問し、マケドニア軍への武器援助を止めるよう圧力をかけた。国際社会は、武力攻撃を仕掛けたKLA・NLA連合の武力行動を抑制するのではなく、攻撃されたマケドニアの防衛戦を抑制する策を選択したのである。これには、NATO軍の一部がこのコソヴォ解放軍のセルビア南部とマケドニア北部の分割闘争を背後で支援していたことがあった。マケドニア共和国としては国家の存亡に関わることであったから、周辺諸国から武器を調達するとともに総動員態勢をとって反撃し、KLA・NLA合同部隊を包囲するまでになる。すると、NATO軍はKLA・NLAを潰滅させないための仲介に乗り出し、マケドニア政府とKLA・NLAの間に和平協定「オフリド合意」を成立させた。このとき米軍はマケドニア政府軍に包囲されたKLAとNLAの合同部隊の中に米軍事請負会社のMPRIの社員やCIA要員が含まれていることから、それを救出するための部隊を派遣した。この救出作戦の護送車の車列を見たマケドニアの住民は、憤りの余り通行を妨げ、投石するという事件が起こされる。
「オフリド合意」はマケドニアにおけるアルバニア人の権利拡大を認めさせるものであったものの、KLA・NLAの武力闘争を放棄させることが盛り込まれたことから、コソヴォ解放軍の大アルバニア構想は潰えることになった。
欧米諸国の既定路線だったコソヴォの独立
コソヴォ解放軍の大アルバニア構想は失敗に終わったものの、コソヴォの独立を諦めたわけではなかった。そこで、ランブイエ和平交渉に含まれていた3年後に独立問題を協議するとの条項の履行を強く要求した。そこで国連は、2005年にアハティサーリ・フィンランド前大統領を調整役に任命する。アハティサーリは当初、コソヴォ自治州は独立国とは称さないが実質的な国家主権を行使することが可能となるという奇妙な妥協案を提示した。しかし、この裁定案はコソヴォ暫定政府およびセルビア共和国両当事者の受け入れるところとはならなかったことから、アハティサーリは国連安保理にコソヴォの独立を決定させる決議案を提出する。この決議案は、安保理事国の中から安保理が国家の独立の可否を決定することに疑義が出されたため、アハティサーリの調停は宙に浮いた。
欧米主要国はコソヴォの独立宣言を率先して承認する
2008年2月17日、コソヴォ解放軍のタチが再び暫定政府の首相に就任すると、コソヴォは独立すると宣言する。そして、自治州議会に独立決議文を採択させた。成り行きを見定めていたNATO加盟の主要国は、このコソヴォの独立を直ちに承認する。セルビア共和国政府は抗議したものの、NATO軍の支配下にあるコソヴォに直接的な影響力を行使することは叶わないため、口頭での抗議にとどまった。しかし、このような独立確保のあり方に疑義を抱いた国々は承認をためらい、1年を経ても国連加盟192ヵ国の内で承認した国は54ヵ国にとどまった。
拉致・殺人・臓器売買など非人道的な行為を繰り返していたコソヴォ解放軍
「旧ユーゴ国際戦犯法廷・ICTY」の首席検察官を務めていたカルラ・デル・ポンテは、ミロシェヴィチ・ユーゴ大統領の持病を仮病扱いして獄死に至らしめたが、コソヴォ解放軍がセルビア人住民などを拉致して殺害し、その臓器を売買していることを把握していた。そのため、ICTYの担当官に調査をするよう指示したが、米国人が多数を占めていたICTYのスタッフの沈黙の壁に阻まれて起訴することはできなかった。
そこで、デル・ポンテは2007年末に退任したのちに「追跡・私と軍の犯罪者」と題した「回想録を出版する。その中で、コソヴォ解放軍の司令官を務め、コソヴォ自治州の暫定政府の首相や主要な閣僚となったハラディナイ、タチ、チェクなどが、紛争の前後にセルビア人住民やロマ人、KLAの方針に従わなかったアルバニア系住民などおよそ300人を隣国アルバニアに拉致して殺害し、その臓器を売買していたと暴露した。
ロシアが調査をするよう要請したが、ICTYは証拠がないとしてこれを退けた。しかし、2010年にスイスのマーティー欧州議会議員が現地調査をした報告書を司法委員会に提出したことから、再び表面化することになり、欧州議会の委員会は調査を確約した。この調査に基づき、コソヴォ首相に就任していたハラディナイがハーグに設置された特別法廷に召還されたため、ハラディナイは2019年7月19日に首相を辞任すると表明する。翌2020年には、大統領に就任していたタチも特別法廷が審問を開始すると告げたため、大統領職を辞任せざるを得なくなる。国際社会が支援したコソヴォ解放軍の実態は、このようなものだったのである。
コソヴォ解放軍の大アルバニア主義は周辺諸国に民兵組織を簇生
* 「太平洋旅団・AB」;コソヴォ紛争中に、米国や欧州などのアルバニア人で構成された民兵組織。
コソヴォ解放軍・KLAの別働隊として活動した。
* 「プレシェヴォ・ブヤノヴァッツ・メドヴェジャ解放軍・LAPBM」;コソヴォ解放軍がセルビア共和国南
部サンジャック地方のアルバニア系住民に結成させ、この地域を武力によってコソ
ヴォ自治州と併合させるための民兵組織。
* 「民族解放軍・NLA」;コソヴォ解放軍が、マケドニア共和国北部のアルバニア系住民に結成させ、こ
の地域を武力闘争で分離してコソヴォ自治州と合併させるためのKLA関連の民兵
組織。
* 「アルバニア民族軍・NAA」;コソヴォ解放軍の中の過激派で、2001年にマケドニアのアルバニア系
住民地区で結成された。コソヴォ在住のセルビア人住民を追放して純粋アルバニア人
国家とすることを目指したグループ。
* 「チャメリア解放軍」;かつてアルバニア人が居住していた、ギリシアのイピロス地方を奪還しようと目
論んで結成された民兵組織。
<参照; コソヴォ自治州、ランブイエ和平交渉、ラチャク村虐殺捏造事件、NATOの対応、米国の対応>
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軍事請負会社は、PMC・private military companyまたはPMF・private military firmあるいはPSC・private security companyなどと称していたが、最近は一般的にPMSCs(Private Military and Security Companies)との呼称で統一されるようになっている。
軍事請負会社は退役した将軍から兵卒に至るまで戦闘のプロ要員を多数抱え、作戦計画、高度化した兵器の操作、偵察、情報収集、諜報活動、戦闘、軍隊や警察部隊の訓練、要人警護、警備、尋問、ロジスティック、軍事施設の建設など軍事に関する多岐な業務を担っている。戦争に関するあらゆる担務や警護のアウトソーシング組織である。軍事請負会社は、子会社まで入れると世界に2001年の時点で500社はあるといわれる。2007年のワシントン・ポスト紙の調査報道によると、非政府組織の1931の私企業が安全保障や諜報活動に関与しているという。年々増大しつつあることをこの数字は示している。PMSCsは世界のおよそ160ヵ国で警備や軍事的な活動をしているが、1990年には6兆円、2005年には10兆円、2010年には20兆円に達するほどの成長を遂げている。
米国防総省は、98年現在42の国々で、軍事請負会社に軍隊を訓練させている。正規兵と請負会社の比率は、1991年の湾岸戦争では50対1だったのが、96年のボスニア平和維持活動では10対1。2001年の9・11事件後に始められたアフガニスタン戦争ではその比率が次第に増大し、2009年になると1対1.5と軍事請負会社の方が多数となった。
2003年のイラク戦争では当初は8対1だったのが2010年には1対1にまで膨れあがった。即ち、最近の戦争では、正規軍より軍事請負会社の方が数量的に多くなっていったのである。2010年代に米国の軍事予算が6000億ドルから7000億ドルに増大している。これが2020年代にはいると8000億ドルを超える。この内のかなりの額が軍事請負会社の維持のために使われている。
ユーゴ連邦解体戦争で米国の戦略の先兵を務めたMPRI社
ユーゴ連邦解体戦争では、直接介入したNATO軍や傭兵の他に、主として米国の軍事請負会社が活動し、独立を宣言した各共和国の正規軍や民兵組織の訓練や戦闘支援を行ない、紛争を激化させた。ユーゴ連邦解体戦争に関与した「軍事請負会社」は、米「MPRI・military professional resources Inc.」、米「DC・dyn corp.」、米「B&RS・brown&root services」、米「KBR・kellogg brown&root」、英「SI社・sandline international」、英「DSL・defence systemslimited」などであり、中でも特筆すべきは米MPRIである。
国連安保理が1991年9月に決議713を採択してユーゴスラヴィア連邦への武器提供や軍事訓練を禁止した際、米政府正規軍の代替部隊としてはクロアチア政府にMPRIを紹介し、MPRIはクロアチア共和国軍の訓練を施した。ボスニア政府も後を追って91年にMPRIに政府軍の軍事訓練を依頼しており、支払いは米政府を通して行なうシステムができあがっていた。
米政府は、これらの軍事請負会社を使ってクロアチア共和国およびボスニア政府を支援し、セルビア人勢力を征圧することによってユーゴ連邦解体戦争を終結させる戦略を描いていた。
米国の意向に反し、93年に入るとボスニア政府軍とボスニア・クロアチア人勢力軍は領域支配を巡って激しく戦火を交えた。ボスニア政府軍とボスニア・クロアチア人勢力軍が戦闘を交えていてはセルビア人勢力を征圧することが困難だと分析した米政府は、「新戦略」を策定する。94年2月24日、ボスニア政府とボスニア・クロアチア人勢力の両勢力に圧力をかけて戦闘を停止することに合意させる。次いで2月26日に「ボスニア政府」とボスニアのクロアチア人勢力の「ヘルツェグ・ボスナ・クロアチア人共和国」および「クロアチア共和国」の政府代表を米国に呼び寄せ、「ワシントン協定」に合意させた。公表された「ワシントン協定」の合意内容は主として2つである。「1,ボスニア政府とボスニア・クロアチア人勢力を統合して『ボスニア連邦』を設立する。2,『ボスニア連邦』と『クロアチア共和国』が将来連合国家を形成するための予備協定に合意する」というものであった。
ボスニア連邦とクロアチア共和国が国家連合を形成するという公式発表は目的化されたものではなく、同時期に行なわれていたボスニア和平国際会議とは別に、米国が独自のワシントン協定にクロアチア共和国を参加させるという不自然な行為を覆い隠すための目くらまし的な作為であった。米政府の新戦略は、公表された内容とは別の深い狙いを持っていた。クロアチア共和国軍とボスニア政府軍およびボスニア・クロアチア人勢力軍に統合した作戦を行なわせ、そこに随時NATO軍が介入して両国のセルビア人勢力を征圧するという筋書きである。
米政府のセルビア人勢力征圧に重要な役割を担ったMPRI
米政府は94年の1年間を準備期間とし、クロアチア共和国軍の作戦指導およびボスニア政府軍とボスニア・クロアチア人勢力軍による統合司令部の設置と軍事訓練のために軍事請負会社MPRIを送り込んだ。さらに、米軍の兵站・通信を担う特殊部隊を派遣し、物資の調達と輸送手段およびクロアチアとボスニア間の軍事通信網の整備を指導した。武器は米海軍が担っていた監視を緩めて海上からの密輸を容易にし、また米軍輸送機で直接クロアチア共和国およびボスニア政府の支配地域の空港に輸送した。この手配はMPRIが担ったものと見られる。
1994年に、クロアチア政府はMPRIと2つの契約を結んでいる。その内容は、「1、クロアチア国防省に戦略的軍事能力を与えることを目的とする管理運営計画を立てる。2、民主主義移行援助計画の設計図を策定する」というものである。これと並行して、MPRIはボスニアのムスリム人勢力とクロアチア人勢力を結びつける軍事的統合計画に取りかかり、94年9月にボスニア内に広大な演習センターを設置して共同作戦を実施するための訓練を施した。兵員は、正規の軍隊を補うためにイランの革命防衛隊やアフガニスタン戦争で活躍したムジャヒディーンなどを組み入れて訓練を施すなど、軍事請負会社は米軍の新戦略の主要な部分を請け負っていた。これらの経費としてボスニア政府は、95年に5000万ドルをMPRIに支払っている。この資金はサウジアラビア、クウェート、ブルネイ、アラブ首長国連邦、マレーシアなどが提供し、ジェームズ・パルデュー米大使が資金を管理した。
MPRIがクロアチア共和国軍とボスニア政府軍のセルビア人勢力征圧作戦を指導
クロアチア共和国は作戦の準備が整うと、95年1月に国連保護軍・UNPROFORの駐留がクロアチアの和平を妨げているとの理由をつけて撤収させるよう要請する書簡を国連に送った。国連安保理はこれを受け、3月に決議981~983を採択してUNPROFORを3分割し、クロアチアに国連信頼回復活動・UNCRO、ボスニアに国連保護軍・UNPROFOR、マケドニアに国連予防展開軍・UNPREDEPを配備することにした。クロアチア共和国はこの再編を見届けると、5月にセルビア人居住地域の「西スラヴォニア」を制圧する「稲妻作戦」を発動して攻略。この稲妻作戦において、ボスニア政府軍は、イグマン山のセルビア人勢力軍を攻撃するなどの陽動作戦を展開するとともにボスニアから西スラヴォニアに至る幹線を抑え、ボスニア・セルビア人勢力が支援に赴くことを阻止した。
次いで7月、クロアチア共和国軍はボスニアに越境してボスニア連邦統合軍とともに「‘95夏作戦」を実行。ボスニアからクロアチアのクライナ地方に通じる幹線道路の要衝であるリヴノとグラホヴォおよびグラモチュを制圧し、ボスニア・セルビア人勢力側からのクロアチアのセルビア人勢力への物資の補給路を遮断した。
95年8月4日、クロアチア共和国軍は15万の兵員を動員してクライナ・セルビア人共和国を壊滅させる大規模な「嵐作戦」を発動する。クロアチア共和国軍はクライナ・セルビア人共和国を包囲する4方面作戦を実施したが、これに呼応してボスニア政府軍は東南部地域における陽動作戦を行なうとともに、第4軍団は「‘95夏作戦」で抑えたリヴノとグラホヴォからクライナ・セルビア人共和国の首都クニン攻撃を側面から支援した。ボスニア政府第5軍団はビハチから出撃してボスニア・セルビア人勢力を牽制するとともに、クロアチア共和国軍と共同でクロアチア・セルビア人勢力を攻撃した。
MPRIは米国の新戦略の遂行を代行する
クロアチア共和国軍の嵐作戦は、MPRIの軍事顧問団の指導によって行なわれたことから、従来の散発的な武力攻撃ではなく統制のとれた見事な軍事作戦を展開した。そのため、3万余の戦闘部隊しか動員できなかったクライナ・セルビア人共和国の主要な戦線はたちまち崩壊し、セルビア人住民とともにクロアチアから脱出せざるを得ない事態に追い込まれた。
赤十字国際委員会・ICRCによると、このときクロアチアから脱出したセルビア人は20数万人に及んだという。クロアチア共和国軍はクライナ地方を制圧すると、すぐさま「東スラヴォニア」の攻略に取りかかろうとしたが、国際社会の圧力もあって断念し、鉾先を本来の統合共同作戦に戻すことにする。
クロアチア共和国軍はボスニア・セルビア人勢力を攻略するための「ミストラル作戦」に切り替え、ボスニア領内に侵攻してスルプスカ共和国の大統領府が置かれていたバニャ・ルカを攻撃し始めた。ボスニア政府軍は、これに共調してバニャ・ルカ近傍のヤイツェなどを攻撃。これらの作戦もMPRIの指導で行なわれたが、NATO軍もクロアチア共和国とボスニア政府の共同作戦に随時加わり、セルビア人勢力のミサイル基地や通信基地を空爆した。
NATO軍は新戦略に基づき直接軍事行動を実行
1995年8月28日に第2のサラエヴォのマルカレ市場爆発事件が起こる。NATO軍はこれを検証することなくセルビア人勢力の犯行だと即断して「オペレーション・デリバリット・フォース(周到な軍事作戦)」を発動する。このNATOの作戦は空爆だけではなく、NATO加盟国主体で編成された国連緊急対応部隊が陸上から攻撃に加わった。ボスニア・セルビア人勢力はこの大規模なNATO軍がらみの攻撃に劣勢は覆いがたく、ミロシェヴィチ・セルビア大統領の助言を受ける形で停戦交渉に応じた。こののちの和平交渉は米国内のデイトン空軍基地で行なわれ、細部をパリで詰めることでボスニア内戦は終結した。これでユーゴスラヴィア解体戦争は終結するかに見えた。
しかし、米国はコソヴォ自治州の独立戦争をも視野に入れていた。米政府は、ボスニア戦争後の「デイトン・パリ協定」が締結されると、コソヴォ自治州に「情報・文化センター」の設立をミロシェヴィチ・セルビア大統領に認めさせる。この情報・文化センターは米CIAの活動拠点とするところである。ミロシェヴィチ大統領は、ボスニア戦争が終結したことで気のゆるみが出たのであろう、CIAの策動拠点をコソヴォに設置させるという誤りを許諾してしまったのである。
MPRIはコソヴォ紛争およびマケドニア紛争においても作戦指導をした
コソヴォ紛争は、コソヴォ解放軍が武力によるセルビア共和国からの分離独立闘争を仕掛けたことに始まる。MPRIは、このコソヴォ紛争にも関与し、コソヴォ解放軍が本格的な武力闘争を始める前からKLAの将校や兵士および民兵にクロアチアやボスニアにおいて訓練を施していた。しかし、MPRIは巧妙な関与を行なったことから、ほとんどその存在が取り沙汰されることはなかった。
1997年に隣国アルバニアが社会主義体制から資本主義体制への転換過程で政治的・経済的混乱に陥ると、コソヴォ解放軍はそれに乗じて武器を大量に入手し、武力によるセルビア共和国からの分離独立闘争を本格化させた。NATO軍は、ボスニア内戦と同じようにコソヴォ紛争にも本格的に介入し、人道的介入の名を冠した「オペレーション・アライド・フォース(同盟の軍事作戦)」を1999年3月に発動し、ユーゴ連邦に対する78日間に及ぶ苛烈な空爆を実行する。反撃する手立てに乏しいユーゴスラヴィア連邦は屈服し、和平協定を受け入れざるを得なかった。この和平協定によって、ユーゴ連邦はコソヴォ自治州から治安部隊を撤収させられることになる。
NATO軍の空爆によってセルビア治安部隊を撤収させたKLAは「大アルバニア」を妄想
NATO軍の介入によってコソヴォ自治州からセルビア治安部隊を排除することに成功したコソヴォ解放軍は、「大アルバニア」を形成することによってコソヴォの独立を国際社会に否応なく認知させることを企てた。そして、セルビア南部のアルバニア系住民居住地域とマケドニア北部のアルバニア系住民居住地域を分離させるための武力闘争に取りかかる。先ず、2000年にセルビア南部のサンジャック地方に「プレシェヴォ・ブヤノヴァッツ・メドゥヴェジャ解放軍・LAPBM」を組織させて武力闘争を仕掛けた。LAPBMがセルビア南部で武力闘争を継続する一方、マケドニアには「民族解放軍・NLA」を結成させ、2001年3月にはKLAと・NLAが本格的なマケドニア攻撃を開始した。
ユーゴ連邦解体戦争で活動した軍事請負会社
「MPRI」は、将軍など最高レベルの退役軍人などが役員を務める軍事に係わる専門知識を有した特異な最大の軍事請負企業である。ユーゴ解体戦争のすべての段階で関与してきた。コソヴォ解放軍のコソヴォでの独立戦争や大アルバニア建設を目指したセルビアおよびマケドニアにおけるアルバニア系住民居住地域の分離戦闘でも作戦指導を担った。KLAの大アルバニア構想は、セルビア共和国治安部隊の本格的な反撃に遭って2001年5月には断念に追い込まれる。マケドニアでは共和国政府軍がウクライナから攻撃ヘリの貸与を受けて総動員態勢を敷いた反撃に遭い、2001年8月にはKLA・NLAが包囲されるまでに追いつめられた。包囲されたKLA・NLAの中にMPRIやCIAの軍事顧問団が含まれていたことから米国の関与が露顕する。米軍は、NATOに介入させてマケドニア政府との間に停戦協定を結ばせる一方で、包囲されたKLA・NLAおよびMPRIやCIAの顧問団を保護してバスなどを仕立てて安全地帯まで護送するという挙にでた。これを見たマケドニア住民は憤激して護送バスの通行を阻止したり、投石を行なった。
その他の軍事請負会社のユーゴ連邦解体戦争への関与
「ダイン・コープ・DC社」は、1997年に「バルカン諸国支援計画」でLOGCAP・兵站民間補強計画の契約を獲得。98年、コソヴォ自治州に派遣されたOSCE検証団の米国側要員として軍事オブザーバーを提供し、ユーゴ・コソヴォ空爆が始まると、兵站や工兵部隊を支援して情報の多くを提供した。その後に派遣されたNATO軍主体の平和維持部隊・KFORによる国家警察の編成や訓練活動にも人員を提供した。軍事請負会社が治外法権的な扱いを受けていることを悪用したダイン・コープ社の社員は、ボスニアで買春組織を経営するという腐敗ぶりを示した。この売春組織の実態は、内部告発した社員によって明るみに出された。しかし、売春宿を経営したDCの社員がボスニアの法に問われることはなかった。
2001年の9・11事件以後、ダイン・コープ社はアフガニスタンに進出し、カルザイ・アフガニスタン大統領の警護を担っている。02年にDC社は、コンピューター関係の「コンピュータ・サイエンス・コーポレーション・CSC」の傘下に入る。
「ブラウン・アンド・ルート・サービシズ・BRS社」は、建設会社のハリバートン傘下の子会社としてユーゴ連邦解体戦争でボスニア・ヘルツェゴヴィナ、クロアチア、コソヴォ、マケドニアで米軍の兵站や難民収容施設の建設にかかわってきた。ハリバートンの会長には米国防長官や副大統領を務めてきたディック・チェイニーが就いていた。
1992年にボスニアの内戦が始まるとLOGCAPは契約を取り、厳冬のバルカンで34のキャンプ建設業務を受託した。95年に発動されたNATO軍の「デリバリット・フォース作戦」の爆撃では、イタリアのアビアーノ空軍基地の兵站業務を請け負った。さらに、「デイトン合意」によりボスニアに和平履行部隊・IFORおよび平和安定化部隊・SFORとして米軍2万人が派遣されると、兵站業務を10億ドルで請け負う。その後バルカン半島での兵站業務を、1996年・4億ドル、97年・1.5億ドル、98年・2億ドル、99年・9億ドル、2000年・4.6億ドルと順調に請け負っており、BRSはバルカンで業務を拡大し、アルバニア、クウェート、サウジアラビア、ソマリアなどでも米軍の兵站業務を担ってきた。
「ケロッグ・ブラウン・アンド・ルート・KBR社」は、1999年にユーゴ・コソヴォ空爆が始まると、米軍の兵站業務を担うとともに、コソヴォ自治州からのアルバニア人難民のキャンプを建設して運営する。さらに、米政府がバルカンにおける「正義拡大作戦・Operation Just Endeavor」の一環としてコソヴォ自治州内に広大な「ボンド・スティール軍事基地」の建設計画を立てると、その建設を請け負う。この基地は、周囲14キロ、敷地400ha、ヘリコプター発着場13ヵ所、航空整備施設2ヵ所、5000人の兵士を収容する192棟の兵舎、厨房食堂施設12ヵ所、大食堂2ヵ所、浴場37ヵ所など300棟の建物を建設するという大規模なもので、KBRは22億ドルを得た。その後もバルカン関連で、2002年に2.5億ドル、2003年および04年に3.7億ドルを受注している。
2003年の米・英・豪の有志軍によるイラク戦争でもケロッグ・ブラウン社は警護や軍事作戦の一端を担い、ファルージャのイラク住民の反発によって殺害されるという事件に巻き込まれた。この事件に対する米軍の報復攻撃は凄まじいものとなり、ファルージャの包囲殲滅作戦として実行された。
英国の「サンドライン・インターナショナル・SI社」は、ボスニア内戦後のNATO軍の和平履行部隊・IFORの兵站業務を請け負った。1998年にはコソヴォ解放軍・KLAの軍事訓練計画を実施しようとしたが、英外務省の介入で取りやめる。サンドライン社は2004年に解散している。同じ英国の「ディフェンス・システムズ・リミテッド・DSL社」は、2000年にコソヴォ自治州での地雷除去を請け負っている。
超法規的存在の民間軍事請負会社
軍事請負会社の契約関係は、国家・政府間だけでなく、軍および企業や団体と直接・間接的に行なうなど複雑な経緯をたどるため、当該国における法的関係が曖昧になりがちである。軍事請負会社が当該国で軍隊と同様な戦闘行為をしても、当該国に軍事請負会社を取り締まる法律が存在しないことがほとんどであるため、法的な罰則の対象とならないことが多い。そのため、軍事請負会社の社員は恣意的な戦闘行動や殺人およびその他の犯罪、人権侵害などを犯すことが少なくないが、それらが咎められることは稀である。また、咎められてもそれをすり抜けるような法的対策を軍事請負会社は講じている。軍事請負会社はこのような事情を悪用し、当該の国の正規軍が国際法上および国内法上あるいは政治的な事情で担えない軍事的な行為を代行する役割を果たしている。
軍事請負会社は軍縮の隠れ蓑となっている
民間軍事請負会社は、米国に最も多く設立されている。米国防総省は冷戦終結後の軍事予算削減の要請に伴い正規軍を削減したが、このことが軍事請負会社の増加を促す要因となった。さらに、新自由主義的政策に基づく公的業務の民営化の推進も追い風となっている。一方、高度の軍事技術を体得した退役将兵を抱える軍事請負会社は、兵員削減による要員不足を補完する組織として不可欠な存在ともなっている。軍事の民営化によって軍事予算や軍事要員が減少したかといえば、そうはなっていない。米国の正規の兵員は減少しているように見えるが、実際の軍事費の総額や軍事要員は兵員削減前より増大している。イギリス、ドイツ、フランス、オランダなどでも正規軍を削減する一方で、軍務の一部を軍事請負会社に委任する傾向が強まっている。
増加し続ける軍事請負会社
ワシントン・ポストのデイナ・プリースト記者のその後の調査によると、9・11事件後に諜報関連予算が50%も増加したため請負企業は263社が増加し、およそ2000社が諜報・軍事請負会社として事業を展開しているという。ここには退役軍人や国防関連の高官をつとめた人たちが多数を占める。回転ドアである。当然ながら事業を展開する過程で外国政府と陰に陽に関わりを持つことになる。
ロシアにおける軍事請負会社「ワグネル」の存在
関係者の中ではそれなりに知られていたのであろうが、ロシア軍が2022年2月24日にウクライナに軍事侵攻してから、ロシアの民間軍事請負会社の存在が膾炙されるようになった。要員およそ5000人の「ワグネル(ワグナー・グループ)」である。この民兵組織は、プーチン・ロシア大統領の側近を構成しているオリガルヒであるエフゲニー・プリゴジンが創設したといわれている。プーチン・ロシア大統領はこの組織と政府との関係を否定しているが、ロシア連邦情報総局・GRUの支援を受けており、ロシア軍の武器で装備しているのでロシア軍と密接な関係があることは疑いない。この組織が関与した戦闘地域はスーダン、マダガスカル、シリア、リビア、中央アフリカ共和国、マリ、そしてウクライナのドンバス地方である。
このワグネルの存在目的は「戦闘、金儲け、そしてフェイクニュースを拡大すること」にあるといわれる。この民兵組織は、国際法の対象外となることを盾に、暗殺などの無法行為を恣にしている。2022年現在、ワグネルの戦闘相手は西側諸国となっている。
しかし、ブリゴジンはドンバス地方における戦闘で冷遇されたことに憤り、ロシア軍部に対して反乱を起こした。反乱は途中で停止するが、直後にブリゴジンは航空機事故で死亡。暗殺が疑われる事案である。
2024年6月米国はウクライナ戦争に「民間軍事請負会社」の派遣を検討し始めると報じられた。これは米国が本格的にウクライナ戦争に介入することを意味する。なぜならバイデン米政権米国は既にウクライナの「マイダン革命」を誘導し、そののちにウクライナ軍の訓練を実施ししてきた実績があるからだ。その訓練部隊に米軍本体が入っていたかどうかの詳細は明らかではないが、その訓練の一端はTVの映像でも流されたので秘密でも何でもない。ユーゴ連邦解体戦争においてもMPRIなる軍事請負会社がクロアチアとボスニアの内戦の作戦指導を行なっていたことは明らかな事実である。
ところが、接戦を報じられていたトランプ共和党候補が大統領選と上下両院議員選でトリプルレッドといわれるように完勝した。トランプ候補は「私が大統領であれば24時間でウクライナ戦争を終結させる」と豪語していた。24時間はともかくとして彼がビジネスマンの資質をもって戦争を愚かな行為であるという信念を抱いていることは伺える。第1期のトランプ政権の際、アフガニスタンの武装勢力タリバンと停戦交渉を行ない米軍を撤収させることで合意に持ち込んだ実績を持つからだ。ところがバイデン政権は軍産複合体の権益を重視したのであろう放置したことで、2021年8月にベトナム戦争と同様の無様な撤退劇を演ずることになった。この第1期トランプ政権の行為を勘案するにウクライナ戦争を外交交渉によって終結させようとしていることは信じるに足る言説である。
そして米・ロ・中間で核兵器を含む軍縮交渉を行なう用意があるとまで言及し、25年2月11日にはプーチンと電話協議を行ない、ゼレンスキー・ウクライナ大統領と首脳会談を行なうことまで取り付けた。しかも、この協議はウクライナのレアメタル鉱物資源を供応開発することを含ませていた。米国とウクライナが鉱物資源の共同開発を行なうようになれば、ロシアもウクライナを攻撃しがたくなるという巧妙な提案であった。ゼレンスキー・ウクライナ大統領はこの交渉の持つ含意を理解する能力を持たなかった。
そのため、ゼレンスキー・ウクライナ大統領は停戦後の安全保障の確証を得ることがなければ停戦交渉には乗れないということに拘り、あろうことがバイデン時代の武力支援の保障に拘ってあり得ないロシア戦との勝利かNATO加盟を念頭にそれが保障できないトランプ大統領をなじってしまう。愚かな言動である。所詮国際政治を理解しないコメディアン上がりの政治家にすぎないのであろう。
米(NATO)がウクライナをNATOに加盟させようと画策し始めたのは90年代に始まる。それを露骨に表したのが2008年にブッシュJr大統領がウクライナとジョージ(グルジア)をNATOに加盟させることを提案したことだ。プーチンの異議申し立はもちろん無視された。それを引き継いだのがバイデンである。
バイデンは上院議員、副大統領時代を通じでウクライナをEUおよびNATOに加盟させるべく憲法の条項に書きこませるという画策をした。ポロシェンコはこれに応じて憲法を改定する。さらに2014年のマイダン革命を主導したばかりか、ヤヌコヴィチ・ウクライナ大統領の追放劇にも主要な役割を演じた。このロシア包囲網は脅威であり、侮辱であり恐怖でもある。ウクライナに設置されることになるNATOの核ミサイルが数分でモスクワに到達することになるからだ。
ウクライナ戦争はNATOとロシアの代理戦争
これらの経緯を勘案すればウクライナ戦争がNATOとロシアの代理戦争であるとの解釈に行き着く。もちろんロシアのウクライナ侵攻は国際法違反であり蛮行である。しかしNATO(米)がロシアのウクライナ侵攻を誘引したのも事実なのだ。ロシアはウクライナがNATOに加盟することを許容しない。とすればウクライナがNATO加盟に固執する限りこの戦争は終わらない。破壊と殺戮が続きウクライナは廃墟と化す。トランプが提唱したウクライナのレアメタルの共同開発は米国によるウクライナの安全保障を保証するということが含意されている。それを理解する能力のないウクライナは不幸である。
欧州の政治家の暗愚で第3次大戦が起こるか
25年2月28日、ゼレンスキー・ウクライナ大統領がホワイトハウスを訪問し、トランプ米大統領と会談した。目的はウクライナのレアメタルなどの鉱山開発を共同で行なう覚書に調印することであった。トランプ米大統領が提唱したこの共同開発事業には安全保障を保障するという含意が込められていた。ところが、どうやらゼレンスキー・ウクライナ大統領はこの意味することを理解していなかったように見える。和やかに挨拶を交わしたのはともかくとして、間もなく口論の場と化したのである。ゼレンスキー・ウクライナ大統領はトランプ米大統領がロシアとの和平交渉を行なうことへの拒否感があったのであろう「オバマ、バイデン、トランプのいずれもロシアのウクライナ侵攻を止められなかった」となじったのである。記者団がいる前で交渉相手をなじるなどということは外交交渉上の珍事と言っていい。これに対しトランプ米大統領は「数百万の命をかけて第3次大戦を賭けるギャンブルをしている」と非難した。これらのやりとりで鉱山の共同開発調印は吹き飛んだ。
欧州首脳のあきれた反応
もしゼレンスキーにバイデンに唆されて戦争に突っ込まされたという負の認識があったのであればその国への恨み言をいうこともありうるだろうが、相手は和平を提唱している大統領である。それに苦情を吐き出すのは正常とは言えない。コメディアン上がりの国際政治の外交上の儀礼を知らない者を選んでしまったウクライナの不幸が表面化した形である。
それはそれとしてこの事態への欧州諸国の反応は愚かとしか言いようがない。EUの硬派といわれるフォ
ンディアライエン欧州委員長は「強くあれ、勇敢であれ、恐れるな」とまるでスポーツ選手を激励しているよ
うな言葉を発した。メルツ次期独首相候補は「私たちは良いときも試練の時もウクライナ側に立つ。侵略者
と被害者を混同してはいけない」と述べた。侵略者と被害者とは何か。敵と味方はっきりさせよということ
か。子どもの喧嘩でも仲裁は必要だ。ましてや和平を模索している大国の大統領に対する発言である。和
平などするなという意図が伺える発言だ。武器の供与を続けるからウクライナはこれからも戦えということな
のだろう。その先に見えるのは何か。トランプ米大統領の口からは第3次大戦との文言も発せられている。
イーロン・マスクが公務員削減をめざし、CIAの職員の削減、国際開発局・USAIDは閉鎖すると発表す
る。どのような意図の下にこれを遂行しているのかは未だ不明だ。しかし、米国には3000者諜報機関が
存在する。公的機関が1000,民間企業が2000である。CIAの幹部は民間企業の方が収入が高いので
CIAを辞めて民間企業を創設して業務を下請けする。この組織に属する者たちは世界を相手に工作を行
なう。この行為は世界にとって有意義だったのか。それを問うているのか。それとも、単に国家予算の削減
を目標としているのか。未だ不明なのである。とはいえ工作でかき回される国々は迷惑なので縮減すること
は望ましい方針と言えよう。
リベラル派といわれる者たちは言葉の上の正義論を振り回してトランプを批判する。その一方でディー
プ・スティトの権益を作り出している。
<参照;クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、コソヴォ自治州、米国の対応>
4,「クロアチア共和国軍のクライナ・セルビア人共和国潰滅作戦」
1991年6月にクロアチアがユーゴ連邦からの分離独立を宣言したことで、クロアチア共和国とクロアチアのセルビア人住民の間の対立が先鋭化して武力衝突が頻発するようになった。国連は91年11月にサイラス・ヴァンス米元国務長官を特使として派遣し、和平の裁定を行なうことにする。そして92年1月1日、ヴァンス国連特使はクロアチア紛争に関する和平裁定案を提示する。和平案は「1,クロアチア共和国軍とクロアチア・セルビア人勢力との間の戦闘を停止する。2,両者の主要な戦闘地域に国連保護地域を設定する。3,保護地域は非軍事地域とする」というものである。これを受けて国連は、2月に国連安保理決議743を採択。国連保護地域・UNPAを東部、西部、北部、南部の4地域に設定し、その地域への国連保護軍・UNPROFORの派遣を決定した。和平協定の武力攻撃を禁止する条項は各勢力が受け入れた国際的な合意事項であり、冷却期間を置くことで和平を実態化することを含意したものだった。しかし、クロアチア共和国軍はこの合意事項を守ることなく、さまざまな軍事作戦を発動して着々とクライナ・セルビア人共和国の支配領域を制圧していった。主な作戦は以下のようなものである。
クロアチアの西南部の国連保護地域のセルビア人勢力掃討の3作戦
1,「ミリフィツィ・プラトー作戦」;クロアチア共和国軍が1992年6月21日に発動。国連保護地域・UNPAであるダルマツィア地方の最南端部のクロアチアのセルビア人居住地域を制圧する作戦。作戦の目的は、クロアチア共和国の支配圏をダルマツィア地方に及ぼすこととクライナ・セルビア人共和国の首都クニン包囲作戦の一環として実行された。
2,「マスレニッツァ作戦」;クロアチア共和国軍が93年1月22日に発動。クロアチア共和国軍がザグレブからダルマツィア地方に兵力を直接送り込むことを可能とするための作戦。クロアチア共和国軍はダルマツィア地方のクライナ・セルビア人共和国の国連保護区南部地域・UNPAに対し、海からの攻撃を行なう。クロアチアの首都ザグレブとザダルを結ぶ交通の要衝であるマスレニツァ橋を攻略し、ザダル周辺のゼムニク飛行場、ペルチャのダムと水力発電所を制圧した。
3,「メダック・ポケット作戦」;クロアチア共和国軍が93年9月9日に発動。ダルマツィア地方の国連保護地域・UNPA西南部地域のゴスビッチ周辺を制圧し、ダルマツィア地方のセルビア人勢力を掃討するための作戦。
この3つの作戦によって、クライナ・セルビア人共和国の首都クニンを西南部のダルマツィア地方から攻撃することが可能となった。
この間、ボスニアではムスリム人勢力としてのボスニア政府軍とボスニア・クロアチア人勢力との間でも領域確保戦闘が激しく戦われていた。特に93年5月にはボスニア・クロアチア人勢力がモスタル市を臨時首都と定め、ムスリム人勢力を追放する作戦は激しい戦闘となった。米政府はこの両者の間で戦闘が行なわれている限り、クロアチアおよびボスニアのセルビア人勢力を征圧することは不可能と分析し、「新戦略」を立案する。この新戦略は、クロアチア共和国軍とボスニア政府軍およびボスニア・クロアチア人勢力に統合した共同作戦を行なわせ、クロアチアおよびボスニアのセルビア人勢力を征圧するという計画であった。
米国の「新戦略」によるセルビア人勢力潰滅作戦
クロアチア共和国は、米国の新戦略に基づく、作戦計画の準備が整うと、1995年1月に国連保護軍・UNPROFORの存在がクロアチアの和平を困難にしているとの理由をつけて、撤収を要求する書簡を国連事務総長に送付した。国連安保理はこれに応じて安保理決議981~983を採択して国連保護軍を3分割し、クロアチアに国連信頼回復活動・UNCRO、ボスニアに国連保護軍・UNPROFOR、マケドニアに国連予防展開軍・UNPREDEPを配備することにする。クロアチア共和国は国連保護軍の3分割による移動が終了すると、軍事作戦を発動してクロアチア・セルビア人共和国のせん滅作戦に取り掛かる。
4,「稲妻作戦」;クロアチア共和国軍が95年5月に発動。米国の新戦略に基づく作戦の一環として、「西スラヴォニア」のクロアチア・セルビア人居住地域のセルビア系住民の掃討を目的として実行された。停戦協定に違反するとして、フランスとドイ
ツおよび英国が武力攻撃を即刻止めるよう要請したが、クロアチア共和国はセルビア人勢力による高速道路の封鎖を解くための限定的軍事行動を行なっているものであり、クライナ・セルビア人勢力軍の掃討が完了すれば撤退すると言い逃れたが、作戦が終了しても撤退することはなかった。
5,「‘95夏作戦」;クロアチア共和国軍とボスニア政府軍の共同作戦として95年7月に発動。クライナ・セルビア人共和国を潰滅させるための最終段階の予備作戦として、ボスニアからクライナ・セルビア人共和国に至る幹線道路の要衝であるリヴノとグラホヴォおよびグラモチュをクロアチア共和国軍がボスニアに越境してボスニア政府軍と共同作戦を実行して制圧した。
ボスニア・セルビア人勢力からのクライナ・セルビア人共和国への物資補給および軍事支援を遮断するための作戦であり、ボスニア政府軍は南東部のスレブレニツァやゴラジュデなどでの陽動作戦を行なうとともにクロアチア共和国軍をボスニア領内に誘導して実行した。6,「嵐作戦」;クロアチア共和国軍が95年8月4日に発動。クロアチア共和国軍が15万余を動員したクロアチア・セルビア人共和国を潰滅させるための大規模なボスニア連邦軍との統合共同作戦。クロアチア共和国は4方面軍を配置し、ボスニア政府軍は第4軍団と第5軍団を動員して実行した。この作戦でクロアチア共和国軍はクライナ地方のクロアチア・セルビア人共和国を潰滅に追い込んだ。クロアチア共和国は引き続き「東スラヴォニア」地方の攻略に取りかかったが、ドイツやフランスなどが圧力をかけたために、クライナ地方のセルビア人住民の掃討だけで切り上げた。そして直ちに「ミストラル作戦」に切り換えてボスニア領内に侵攻する。
6,「ミストラル作戦」;クロアチア共和国軍が95年8月に発動。「稲妻作戦」に始まるクロアチアおよびボスニア両国のセルビア人勢力制圧の最終段階の共同作戦として実行された。クロアチア共和国軍は、「嵐作戦」に勝利するとボスニア領内に侵攻し、ボスニア・セルビア人勢力のスルプスカ共和国を制圧するための「ミストラル作戦」に切り換え、ボスニア連邦軍とともにスルプスカ共和国の攻略を実行した。クロアチア共和国軍は大統領府が置かれていたバニャ・ルカを攻撃し、ボスニア政府軍は共調してバニャ・ルカ近傍のヤイツェなどを攻略した。クロアチア共和国軍のバニャ・ルカ攻略は容易ではなく、ボスニア紛争が95年末に終結するまで完遂できなかった。クロアチア共和国軍が95年に発動した一連の作戦の中で唯一勝利に導けなかった作戦である。
<参照;トゥジマン、クロアチア、稲妻作戦、‘95夏作戦、嵐作戦>
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
当時のブッシュ米政権は、当初ユーゴ問題に対しては慎重な姿勢を示していた。それは、91年6月25日にスロヴェニアとクロアチアがユーゴ連邦からの分離独室を宣言した翌26日にブッシュ大統領が発言した言葉にそれが表れている。彼は「これ以上の暴力はいらない。必要なのは話し合いによる解決だ」とのコメントを出した。そして、EC諸国が92年1月15日にスロヴェニアとクロアチアの独立を承認した際にも、同調しなかった。しかし、92年に民主党のビル・クリントンが大統領選に立候補してブッシュ政権のユーゴ問題への対応を批判してからは徐々に強硬策を採るようになっていく。
クリントンはブッシュ大統領との大統領選に勝利し、93年1月に大統領に就任すると、すぐさまセルビア悪を基調とした善悪二元論的政策打ち出した。このクリントン政権のセルビア悪に基づくユーゴ問題への解決策は、きわめて表層の浅薄な分析に基づくものであることがすぐに明らかになる。
ボスニア紛争はボスニア政府軍とボスニア・セルビア人勢力間の紛争だけではなく、ボスニア・クロアチア人勢力による三つ巴の支配領域確保闘争が行なわれていたのである。ことに、ボスニア・クロアチア人勢力としての「ヘルツェグ・ボスナ・クロアチア人共和国」が、モスタル市を臨時首都とすることを企図し、93年5月からモスタル市のムスリム人勢力掃討作戦は激しい砲撃戦を展開することとなった。
クリントン政権はこの事態にしばし戸惑ったが、それにもかかわらずセルビア人悪説を改めることはなかった。そして、セルビア人勢力を征圧する「新戦略」を策定してすぐさま実行に移す。まずトゥジマン・クロアチア共和国大統領に圧力をかけ、ヘルツェグ・ボスナ・クロアチア人共和国の強硬派のマテ・ボバン大統領を解任させる。次いでボスニア政府軍とボスニア・クロアチア人勢力軍との戦闘を停止させる。その上で、クロアチア共和国、ボスニア政府、ボスニア・クロアチアの代表をワシントンに呼びつけて「ワシントン協定」に合意させた。
ワシントン協定は公表された表向きの内容とは異なり、3者に統合共同作戦を行なわせてクロアチアとボスニアのセルビア人勢力を征圧するというものであった。この方針に基づき、米軍時請負会社MPRIやCIAなどを送り込んで94年の1年間を軍事訓練と軍備の充実に充てた。
クロアチア共和国政府は作戦の障害となる国連保護軍を排除
95年1月、トゥジマン・クロアチア共和国大統領は戦闘の準備が整うと、ガリ国連事務総長に国連保護軍・UNPROFORの存在がクロアチアの和平を妨げているとの理由をつけ、撤収を要請する書簡を送りつけた。安保理では異論が出されたもののこれに応じ、3月に国連保護軍を3分割する決議981~983を採択し、クロアチアには縮減した国連信頼回復活動・UNCRO、ボスニアには国連保護軍・UNPROFOR、マケドニアには国連予防展開軍・UNPREDEPを配備することになる。トゥジマン・クロアチア大統領はこの再配置を見届けると、すぐさまクロアチアのセルビア人住民掃討作戦に取りかかった。
クロアチア共和国軍は国連軍を蹴散らして作戦を遂行
95年5月1日、クロアチア共和国軍は国連保護地域・UNPAであるセルビア系住民居住地域の「西スラヴォニア」を制圧する「稲妻作戦」を発動し、戦車や装甲車、重砲を投入して激しく攻撃した。この稲妻作戦は、削減された国連信頼回復活動・UNCROの監視所を排除することから始められた。NATOは、クロアチア共和国軍が国連信頼回復活動・UNCROを攻撃したにもかかわらず、クロアチア軍の軍事行動を抑止することなかった。国連は、停戦監視所が被弾したことを理由としてUNCROの2000人の部隊に緊急撤収を命じる。
ドイツとフランスおよび英国などが戦闘の停止を要求し、明石国連特別代表もクロアチア共和国軍およびクロアチア・セルビア人勢力軍双方に即時停戦を要請したが、クロアチア共和国政府はザグレブと東部のリホヴァツを結ぶ高速道路と鉄道の安全を確保する治安活動の一環であるとの理由をつけて攻撃を続行。
セルビア人勢力は不意を突かれた形となり、ほとんど抵抗することなく戦闘能力のある男は拘束され、女性は迫害を怖れて難民・避難民となって離脱した。「西スラヴォニア」は3日間で陥落し、セルビア系住民450人が殺害され、1万2000人が追放された。EU諸国は攻撃中止するよう要請したものの、米国およびNATO軍は黙認したのみか、同時に進行していたボスニア情勢においてセルビア人勢力が重砲を期限までに返還しなかったとして懲罰的な空爆を実行した。クライナ・セルビア人共和国では、「西スラヴォニア」を奪還された責任が問われ、軍司令官が解任され、ミケリッチ首相が不信任決議を受けて辞任した。このセルビア人共和国の内紛は尾を引き、相次いでクロアチア共和国が発動した「‘95夏作戦」および「嵐作戦」によってクライナ・セルビア人共和国はあっけなく崩壊することになる。
<参照;クロアチア、米国の対応、NATOの対応、クライナ・セルビア人共和国潰滅作戦>
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6,「‘95夏作戦」
クロアチアとボスニアのセルビア人勢力間の分断を図った作戦
米国が1994年2月に立てた「新戦略」に基づく「ワシントン協定」の合意によって、クロアチア共和国軍とボスニア連邦軍は米国の軍事請負会社・MPRIの訓練を受け、武備も十分に整えられた。
新戦略の一環としての「稲妻作戦」に次いで実行された「‘95夏作戦」は、クロアチアのセルビア人勢力およびボスニアのセルビア人勢力制圧の予備作戦として行なわれた。
95年7月26日、ボスニア政府はボスニア・セルビア人勢力の目を西部地方に向けさせないようにするために東南部のスレブレニツァ、ジェパ、ゴラジュデなどで周辺への攻撃を行なうよう陽動作戦の指令を出して牽制した。そして「95‘夏作戦」を発動する。
「95’夏作戦」はクロアチア共和国軍をボスニア領内に誘導してボスニア連邦軍と連携し、ボスニアからクライナ・セルビア人共和国に至る交通の要衝であるリヴノとボサンスコ・グラホヴォおよびグラモチュを3日間で制圧し、連絡網を遮断した。国際社会は、クロアチア共和国軍がボスニアに越境した軍事行動をとったにもかかわらず、不問に付した。
支援に赴けなかったボスニア・セルビア人勢力
この時期、ボスニア・セルビア人勢力のスルプスカ共和国軍はボスニア政府軍の陽動作戦の一環であることに気が付かずに、「クリバヤ95作戦」を発動して東地区のスレブレニツァ、ジェパ、ゴラジュデ攻略作戦に取りかかっていた。そのため、西地区で展開されたクロアチア共和国軍とボスニア政府軍の「‘95夏作戦」に対応できなかったのである。
要衝の地が制圧されたことによって、クロアチアのクライナ・セルビア人共和国の首都クニンは補給路を断たれただけでなく、軍事的に包囲される形となった。「‘95夏作戦」は、クロアチアのクライナ・セルビア人共和国とボスニア・セルビア人勢力との連絡路の遮断に留まらず、ボスニア・セルビア人勢力軍の作戦のための移動の可能性も断つものであった。
要衝を抑えられて孤立したクロアチアのクライナ・セルビア人共和国は、もはやクロアチア共和国およびボスニア連邦の増強された軍事力の対抗勢力たりえなかった。直後の8月にクロアチア共和国軍が発動したボスニア連邦軍との共同の「嵐作戦」によって、クライナ・セルビア人共和国はあっけなく崩壊することになる。
<参照;クロアチア、米国の対応、NATOの対応、クライナ・セルビア人共和国潰滅作戦>
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慎重なブッシュ政権から強硬なクリントン米政権へ
ブッシュ米政権は、当初ユーゴ連邦問題には慎重な姿勢を示していた。それはスロヴェニアとクロアチアが1991年6月25日にユーゴ連邦からの分離独立を宣言した翌26日に「これ以上の暴力はいらない。必要なのは話し合いによる解決だ」とのコメントを発したことに表わされている。
しかし、民主党のビル・クリントンが92年の大統領選に立候補した際、ブッシュ政権のユーゴ問題に対する政策を批判したことで次第に強硬な対処策を採るようになっていく。これに便乗した軍産複合体の働きかけがあった可能性も否定できない。
EC諸国が1992年1月15日にスロヴェニアとクロアチアの独立を承認した際にも、ブッシュ政権は両国の独立承認には慎重な対応を採っている。しかし、3月にボスニア・ヘルツェゴヴィナが独立を宣言するに及び、4月には3ヵ国を一括承認に踏み切った。この米政権の転換がユーゴ連邦を悲惨な内戦へと引き込むことになった。
クリントン政権はセルビア悪の善悪二元論的政策を遂行
クリントンが大統領選に勝利し、93年1月に大統領に就任すると、すぐさまセルビア悪説を前提とした善悪二元論的な政策を策定し、実行に移し始めた。だが、ボスニア紛争はクリントン政権が把握しているような単純な構図で動いていたのではなかった。ムスリム人勢力としてのボスニア政府とボスニア・セルビア人勢力およびボスニア・クロアチア人勢力の三つ巴の領域獲得紛争だったのである。
93年に入ると、ムスリム人勢力のボスニア政府軍とボスニア・クロアチア人勢力軍が激しい領域争奪戦を再開した。特に、ボスニア・クロアチア人勢力としての「ヘルツェグ・ボスナ・クロアチア人共和国」が臨時首都と定めたモスタル市を巡る93年5月からの争奪戦は、激しい砲撃戦の応酬となった。この時の砲撃戦で、ネレトヴァ川に架かっていた橋はすべて破壊された。
クリントン米政権は、この両勢力軍の激しい戦闘にしばし戸惑ったが、セルビア悪を基調とした政策を改めることはなかった。そしてセルビア人勢力を征圧するための独自の「新戦略」を策定する。
1994年2月、米政府はクロアチア共和国のトゥジマン大統領に圧力をかけてヘルツェグ・ボスナ・クロアチア人共和国の強硬派のマテ・ボバン大統領を解任させる。次いで、ボスニア政府軍とボスニア・クロアチア勢力軍に圧力をかけて停戦に合意させる。その上で、3月1日にクロアチア共和国およびボスニア政府とボスニア・クロアチア人勢力を米国に呼び寄せて「ワシントン協定」に合意させた。
ワシントン協定はセルビア人勢力征圧作戦
ワシントン協定の内容は、「1,ボスニア政府とボスニア・クロアチア人勢力を統合して『ボスニア連邦』を設立する。2,『ボスニア連邦』と『クロアチア共和国』が国家連合を形成するための予備協定に合意する」というものである。この新戦略に基づくワシントン協定の目的は、表向きの内容とは異なり、クロアチアとボスニア両国のセルビア人勢力を征圧させるために、3勢力を統合した共同作戦を実行させるところにあった。94年の1年間は統合共同作戦のための準備期間に充てられた。米政府は、軍事請負会社MPRIやCIAを送り込んでクロアチア共和国軍およびボスニア連邦軍を訓練させただけでなく、国連の武器禁輸決議を無視して監視を緩め、武器の密輸に協力した。
トゥジマン・クロアチア大統領は国連保護軍の排除を企てる
1995年1月、トゥジマン・クロアチア共和国大統領は、戦闘の準備が整うと、国連保護軍・UNPROFORの存在がクロアチアの和平を阻害しているから撤収せよとの書簡を国連に送付した。国連安保理はこれを受け、3月に国連保護軍を3分割する決議981~983を採択し、クロアチアに国連信頼回復活動UNCRO、ボスニアに国連保護軍・UNPROFOR、マケドニアに国連予防展開軍・UNPREDEPを配備することにする。
5月1日、クロアチア共和国軍は国連保護軍が3分割による縮減と移動を見届けると、一連のクロアチア・セルビア人住民の排除作戦を発動する。
一連の作戦とは95年5月の「稲妻作戦」、95年7月の「95‘夏作戦」、95年8月の「嵐作戦」に続くボスニアでの「ミストラル作戦」および「虎作戦」である。ボスニア政府軍は別に「ウナ作戦」や「サナ作戦」を実行している。中でも嵐作戦はその最終段階の統合共同作戦と位置づけられた。
「嵐作戦・オペレーション・ストーム」はクロアチア・セルビア人勢力排除への最終段階の作戦
1995年8月4日早朝、クロアチア共和国軍は15万余の兵員を動員し、国連保護地域・UNPAに指定されているクライナ地方に対して嵐作戦を発動した。先ず、国連保護地域・UNPAの監視活動をしていた国連信頼回復活動・UNCRO軍兵士30人を人質にして行動を制約し、UNCROを撤収に追い込んだ。国連当局およびドイツとフランスなどEU諸国が戦闘停止を要請するが、トゥジマン・クロアチア大統領は軍事力行使を正当化して耳を貸さなかった。
クロアチア共和国軍とボスニア政府軍による本格的な軍事作戦
クロアチア共和国軍の嵐作戦は、15万の兵員を4つの作戦軍に編制して実行された。第1軍は首都ザグレブから南下し、クライナ北部からボスニア国境までを確保する作戦を実行。第2軍がクロアチア中部のカルロヴァツからクライナ地方をボスニア国境まで攻略する。第3軍は西側海岸のダルマツィア地方からクライナ地方を攻略する。第4軍はクライナ・セルビア人共和国政府の首都のクニンを、ボスニア・クロアチア人勢力のクロアチア防衛会議とともに南部から攻撃するという大規模な軍事作戦である。
ボスニア連邦軍は共同作戦として第4軍団が「‘95夏作戦」で確保したリヴノとグラホヴォからクライナ・セルビア人共和国を攻撃するという全方向からの殲滅作戦として実行された。さらに、ボスニア連邦軍はビハチから第5軍団を出動させてクロアチアの第1軍および第2軍と呼応してクロアチアのクライナ地方を攻撃するとともに、ボスニアのセルビア人勢力がクロアチア・クライナ地方のセルビア人勢力軍を支援できないように遮断した。
迎え撃つクライナ・セルビア人共和国軍の兵力は、先の稲妻作戦で東スラヴォニアと分断されたために動員できたのは僅か4万人弱であった。その上、クライナ・セルビア人勢力は停戦合意にともなって重火器はUNCROに供出していたこと、さらに内紛も影響を与えて戦闘態勢も十分に整えることができなかった。そのため、クライナ・セルビア人共和国軍の防衛は、グリナでは多少の抵抗を試みたもののヴォイニチの守備兵5000人が投降するなど、NATO軍に支援されたクロアチア共和国軍やボスニア連邦軍を合わせた20万の兵力による攻撃の前に、効果的な抵抗をすることなく数日で崩壊した。
クロアチア政府は純粋クロアチア人国家を目指していた
あっけない防衛戦の崩壊に伴い、クライナのセルビア人住民は大混乱に陥り、砲弾の飛び交う中を20数万人がボスニアやセルビアへの逃避行を余儀なくされた。クロアチア共和国軍は、逃避するセルビア人避難民の中に砲弾を撃ち込み、ミグ戦闘機の機銃で掃射して殺戮した。トプスコの国連難民キャンプに集まっていたセルビア人難民の上にも砲撃が加えられた。さらにクロアチア共和国軍は、セルビア人が再び帰還することを不可能にするために、クライナ地方の住民が退去した後の家屋を放火し、砲撃を加えて70%を破壊した。嵐作戦によって「東スラヴォニア」を除くクライナ地方のセルビア人住民はほぼ掃討された。
嵐作戦はクロアチア・セルビア人住民への民族浄化作戦
国連スポークスマンのクリス・ギュネスは、「婦女子がベッドで寝ている朝5時に民間居住地域への砲撃が始まり、大規模な住民掃討で終わる戦闘は、間違いなく民族浄化に等しい行為だった」と述べた。ジミー・カーター米元大統領は、「現在セルビア人をクライナ地方から追放しようとしているクロアチア政府軍は、民族浄化に関して、ボスニアのセルビア人勢力と同等の罪を犯していると私は考える」と発言。国連信頼回復活動・UNCROの司令官だったカナダのレスリー将軍は、「この作戦でセルビア住民2万人前後が死亡した」と証言した。
国連保護地域・UNPAの東スラヴォニアのセルビア人勢力も、稲妻作戦で回路を遮断されたために傍観するよりなく、避難民の受け入れのみに終始した。他方、ボスニアのスルプスカ共和国とクロアチアのクライナ・セルビア人共和国は統一を目指した協調行動を合意していたにもかかわらず、ボスニアのセルビア人勢力軍は東南部における自軍の作戦やボスニア和平をめぐる動きに制約されて支援行動に向かうことなく、何らの役割も果たせなかった。
クロアチア・セルビア人共和国から支援要請を受けたミロシェヴィチ・セルビア大統領は、クロアチア共和国軍の軍事行動を非難し、国連安保理に対して即時停戦の要請を行なったのみで、実質的な行動をとることはなかった。ユーゴスラヴィア連邦およびセルビア共和国にとっては、経済制裁の解除が喫緊の課題であって、クロアチアおよびボスニアのセルビア人勢力への救援は二義的な位置づけでしかなかったのである。国際社会も、国連もEUも口先だけでクロアチア共和国軍の行動を非難はしたものの、セルビア共和国やユーゴ連邦に対して行なったような実質的な制裁行動を取ることなく容認した。
嵐作戦は米国およびNATO軍との共同作戦
クロアチア共和国軍は嵐作戦に勝利すると、クロアチア・セルビア人共和国の残存地帯となったクロアチア東部の東スラヴォニアのセルビア人の追放作戦を企図したが、さすがにそれは国際社会も圧力をかけて思いとどまらせた。その後、東スラヴォニアは国連の暫定統治機構・UNTAESの統治を2年間受けた後、クロアチアに併合されることになる。セルビア人とクロアチア人の混住地域だったからである。
嵐作戦には米国が主導するNATO軍が密接に関与していた。NATO軍は無人偵察機を飛ばして情報を提供し、偵察機がミサイル攻撃のレーダー照射を受けたとの口実をつけて、セルビア人共和国軍のレーダー基地や通信基地を空爆して支援行動を取った。
クロアチア共和国軍は東スラヴォニア攻撃を抑止されると「ミストラル作戦」に切り換えてボスニア領内に侵攻し、ボスニア・セルビア人勢力のスルプスカ共和国が大統領府を置いていたバニャ・ルカ制圧作戦を、ボスニア連邦軍と共調して実施した。ボスニア政府軍は共同作戦の一環として、近傍のヤイツェやボサンスキ・ペトロヴァツ、サンスキ・モスト、クリュチュ、クレンヴァクフなどの攻略を実行し、ボスニアのおよそ50%を超える地域を制圧した。クロアチア共和国軍のバニャ・ルカ陥落作戦は結局成功しなかったが、その後も他のセルビア人勢力の支配地域への攻撃作戦をボスニア連邦軍と共調して95年10月まで続行した。
この間、NATO軍は8月にマルカレ市場での爆発事件が起こると、それを検証することなくセルビア人勢力によるものと即断して「デリバリット・フォース作戦(周到な軍事作戦)」を発動する。そして、ボスニア・セルビア人勢力を空陸から攻撃し、征圧作戦を完成させた。
協定は成立したもののセルビア系住民の帰還は困難
トゥジマン・クロアチア大統領はセルビア系住民のクライナ地方への帰還を国際社会に保証したが、嵐作戦によって住居は放火と砲撃で破壊され尽くしており、残された家屋や財産も不在を理由に没収したため、セルビア人住民が帰還しても元の居住地へ戻ることは不可能といえた。これらの一連の作戦で、クロアチアに12%・56万人いたセルビア人住民はおよそ3分の1の4.5%に激減し、東スラヴォニアなどに20万人ほどが居住するのみとなった。クライナ地方のセルビア人の居住地域は、21世紀に入ってもゴーストタウン化したままで、僅かに老人たちが貧しい生活をしているのみである。
初代大統領トゥジマンの後任として第2代のクロアチア大統領になったスティペ・メシッチは、のちに「トゥジマン大統領は、米国とドイツからのゴーサインがなければ嵐作戦を遂行することはなかったであろう」と述べている。この時に追放されたセルビア人住民は、クロアチアの東スラヴォニアやボスニアのセルビア人居住地やセルビアのベオグラードおよびコソヴォ自治州に避難した。のちに、コソヴォ自治州に避難したセルビア人は、コソヴォ解放軍・KLAの迫害と追放の対象となる。
<参照;クロアチア、米国の対応、NATOの対応、クライナ・セルビア人共和国潰滅作戦>
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8,「オペレーション・デリバリット・フォース・周到な軍事作戦」
このODF(Operaion Deliberate Force)作戦は、米国が立案した「新戦略」の一環として、NATO軍がボスニアのセルビア人勢力を屈服させるために95年8月30日から9月20日まで実行した軍事作戦である。
NATO軍はマルカレ市場事件を口実に「デリバリット・フォース作戦」を発動
クロアチア共和国軍は米国の新戦略に基づき、クライナ・セルビア人共和国を潰滅させるための「嵐作戦」を95年8月4日に発動した。クロアチア共和国軍は嵐作戦に完勝すると「ミストラル作戦」に切り替えてボスニア北部に侵攻し、ボスニア連邦軍と共調してボスニア・セルビア人勢力への攻略作戦を実行する。
その最中の8月28日に、ボスニアの首都サラエヴォのマルカレ市場の近くで爆発があり、38人が死亡し、89人が負傷するという第2のマルカレ市場事件が起こされた。ボスニア政府は、すぐさまセルビア人勢力による砲撃であるとしてと非難声明を出す。セルビア人勢力はこれを否定し、調査団の派遣を要請したが無視された。サラエヴォに駐屯していた国連保護軍は、翌29日に十分な調査をすることなく、セルビア人勢力側を非難する声明を発表した。これを受けて、NATO軍はボスニア・セルビア人勢力が起こしたものと即断し、既に明石国連特別代表に付与されていた文民統制の権限を剥奪していたことから、国連保護軍・UNPROFORのジャンヴィエ司令官とスミスNATO軍南部司令官の軍人のみの判断で事件から僅か1日余りのちの8月30日の未明から「デリバリット・フォース作戦(周到な軍事作戦)」を発動した。このマルカレ市場事件は、国連の英・露の専門家がセルビア人勢力の行為だとする証拠はなく、ボスニア政府軍による可能性の方が高い、との報告を出したが、国連保護軍は検証することなく却下した。明石国連特別代表の指揮権を剥奪した時点で、この軍事作戦の発動は決定されていたと見られる。
NATO軍は作戦の発動に備えて着々と態勢を整えていた
NATO軍は、マルカレ市場事件が起こるより早い春先から、ボスニア・セルビア人勢力のスルプスカ共和国軍に対する空爆の準備を整えていた。NATOの軍事作戦の目的はボスニアのスルプスカ共和国軍を屈服させることにあり、クロアチアの嵐作戦を援護しつつ戦闘爆撃機をイタリアの基地など周辺の航空基地におよそ300機を配備し、米原子力空母セオドア・ルーズベルト、イージス巡洋艦ノルマンディーなどをアドリア海沖に配置して作戦発動のきっかけを待っていた。攻撃は8月30日午前2時、イージス艦ノルマンディーから巡航ミサイルが発射され、空母セオドア・ルーズベルトから発進したF/A18CとイタリアのアビアーノNATO空軍基地から出撃した米空軍F16Cがレーザー誘導爆弾とミサイルでボスニア・セルビア人勢力の指揮統制施設を爆撃して始められた。NATO軍の攻撃に対し、ボスニア・セルビア人勢力のカラジッチ・スルプスカ共和国大統領は「われわれは自らを護るためにあらゆる手段を講じる」との声明を発表する。
NATO加盟18ヵ国の空軍が作戦に参加
作戦にはNATO加盟18ヵ国の空軍が19種類の攻撃機を投入した。米国のF16,A10A、F15E、AC130、F/A18C/D、F14D、フランスのジャガー、ミラージュ2000D/K、英軍のハリアー、シー・ハリアー、ドイツ・トルネードECRとトルネードIDS、イタリアのトルネードIDS、オランダのF16A、スペインのEF18。偵察機は米軍のU2R、F14に偵察ポッド搭載、仏軍のミラージュF1CR、ジャガー、ミラージュ2000などに偵察ポッド搭載、英軍のハリアーとシー・ハリアーにも偵察ポッドを搭載、オランダのF16Aも偵察ポッドを搭載して参加した。無人機は米軍のRC135,EP3、ES3、英軍のニムロッド、仏軍のC160などが投入された。給油機は仏・伊のKC135/707,米軍のKC10、英軍のL1011、スペインのKC130が任務に当たった。
爆撃には、トマホーク巡航ミサイル、レーザー誘導兵器とミサイル・GBU1012,SLAM、GBU15、AGM65TVなどが使われた。無誘導爆弾は、500ポンド・MK82、1000ポンドMK83、2000ポンド・MK84、クラスター爆弾などが使用された。精密誘導兵器の87%は米軍のもので、英軍が6.8%、その他のNATO加盟諸国軍が6.2%を補填した。攻撃に参加した各国の兵力の割合は、米軍・45%、仏軍・15%、英軍・9%、イタリア軍・7%、オランダ軍・6%、トルコ軍・6%、ドイツ軍・5%、スペイン軍・4%、その他NATO加盟諸国軍・3%である。
NATO加盟国主体の国連緊急対応部隊も実戦に参加
地上の攻撃は、進駐していたNATO加盟国の英・仏・オランダ主体の国連保護軍の緊急対応部隊としての英軍砲兵隊が、イングラム山からボスニア・セルビア人勢力に対し砲撃を加えた。既に、クロアチア共和国軍がボスニア北部に侵攻してボスニア・セルビア人勢力の大統領府が置かれていたバニャ・ルカ攻撃作戦を行なっており、ボスニア連邦軍(ボスニア政府軍とクロアチア人勢力軍)もこれに共調してバニャ・ルカ近傍のヤイツェなどを攻撃して共同作戦の一端を担っていた。セルビア人勢力のスルプスカ共和国軍は、地上からボスニア連邦軍とクロアチア共和国軍およびNATO加盟国主体の国連緊急対応部隊、空からはNATO軍の空爆を受けていたことから、四面楚歌状態に陥っていた。9月1日にNATO軍は空爆の一時停止を宣言し、セルビア人勢力に交渉につくよう促したが、セルビア人勢力のムラディッチ将軍が応じなかったため、再び激しい空爆を開始した。セルビア人勢力軍の陣地はもとより、橋や道路などのインフラも攻撃目標に加えられた。4方面の周到な作戦にスルプスカ共和国軍は屈服する
95年9月8日、米・英・仏・独・伊・露の連絡調整グループの外相会議がジュネーブの米代表部で開かれ、「1,ボスニアが国際的に承認された現在の国境を持つ国として存続する。2,ボスニアは『ボスニア連邦』と『スルプスカ共和国(セルビア人共和国)』の2つで構成され、その領土を51%と49%とする」などの内容を持つ声明を発表した。
ボスニア・セルビア人勢力は仏軍のミラージュ2000を1機撃墜したものの効果的な対空防衛ができないことから、空爆による甚大な損害を終わらせるためにはNATO軍との停戦に応じるしか方策は残されていなかった。事態を収拾するために、ユーゴ連邦とボスニア・セルビア人勢力の交渉団は連絡調整グループの声明を評価すると発表する。これに対し、NATO軍はセルビア人勢力に「サラエヴォ近郊から重火器を撤去すること」との要求を付け加えたためにセルビア人勢力軍がこれを渋り、NATO軍の空爆は再開された。
米国は頃合いを見計らってリチャード・ホルブルックをベオグラードに派遣し、ミロシェヴィチ・セルビア共和国大統領と協議に入らせた。ミロシェヴィチ大統領はホルブルックの要請に応じてボスニア・セルビア人勢力を説得する。9月14日、強硬姿勢を崩さなかったボスニア・セルビア人勢力は、ミロシェヴィチ大統領の説得を受け入れ、サラエヴォ近郊の重火器を撤去する条件をのんで停戦を受諾すると表明する。9月20日、国連保護軍のジャンヴィエ仏軍中将とNATO軍のスミス米軍大将はセルビア人勢力がサラエヴォ近郊から重火器を撤去したことを評価して空爆を停止すると発表し、この作戦は終結した。
翌21日、国連安保理はボスニアにおける戦闘停止を求める決議1016を採択する。しかし、越境したクロアチア共和国軍は撤退せず、ボスニア連邦軍とともに10月に入ってからもセルビア人勢力への攻撃を続け、これを支援する形でNATO軍もセルビア人勢力軍が対空レーダーでNATO軍機を照射したとの口実を付けて通信基地にミサイルを撃ち込むなどの軍事攻撃を行ない、ボスニアにおける戦闘は続けられた。
デリバリット・フォース作戦は名称が示すように、米国の新戦略に基づくワシントン協定に沿ってクロアチア共和国軍およびボスニア連邦軍の統合共同軍事行動に呼応し、クライナ・セルビア人共和国とボスニア・セルビア人勢力のスルプスカ共和国を屈服させるという意図の下に、周到に計画して実行した作戦である。
「デリバリット・フォース作戦」はセルビア人勢力を屈服させる目的
デリバリット・フォース作戦の後始末としての和平交渉は、95年11月に米オハイオ州デイトンにある米軍基地で行なわれた。ボスニアのセルビア人勢力のカラジッチ・スルプスカ共和国大統領およびムラディッチ・スルプスカ共和国軍総司令官は、旧ユーゴ国際戦犯法廷・ICTYが95年4月にボスニア内戦に関する戦争犯罪容疑で起訴していたこともあって和平交渉に出席できなかった。当事者であるボスニア・セルビア人勢力は傍役に置かれ、彼らの権益は大幅に抑制されることになる。ともあれ、この協議で合意された「デイトン合意」はパリで細目が詰められて「デイトン・パ協定」となる。
「デイトン・パリ協定」の締結でこの紛争終結でユーゴスラヴィア連邦解体戦争は終結するかに思われたが、米国はこれで終わらせるつもりはなかった。翌1996年にミロシェヴィチ大統領と交渉してコソヴォ自治州に「情報・文化センター」の設置を認めさせたのである。情報・文化センターは、CIAが拠点とするところであり、CIAはここを拠点としてコソヴォ解放軍・KLAと接触することを選択したのである。
<参照;ワシントン協定、マルカレ市場事件、嵐作戦、米国の対応>
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9,「オペレーション・アライド・フォース(同盟の軍事力作戦)」
コソヴォ紛争をめぐる、1999年3月24日にNATO軍がユーゴ連邦に対して発動した「アライド・フォース作戦(Operation Allied Force)」は、ユーゴ連邦解体戦争の総仕上げとして6月9日まで78日間実行した人道的介入の名を冠したいわゆる「ユーゴ・コソヴォ空爆」である。
コソヴォ紛争はコソヴォ解放軍の武力闘争が原因
コソヴォ自治州のアルバニア系住民は、かねてからユーゴ連邦からの分離独立を志向していた。ユーゴ連邦は74年憲法でコソヴォ自治州にも共和国と同等の行政権限を付与したが、コソヴォが経済的後進地域だったことからアルバニア系住民は不満を噴出させて暴動を繰り返した。そのため、コソヴォ自治州の少数派であるセルビア人住民との対立が激化し、多数派のアルバニア系住民がセルビア人住民を迫害し、追放するなどの脅威を与えていた。
1987年4月、ミロシェヴィチ・セルビア幹部会議庁は問題の解決を図るためにコソヴォ自治州に赴いた。そこで目の当たりにしたのは、多数派のアルバニア人警察官がセルビア人住民を迫害している情景だった。そこでミロシェヴィチは、コソヴォ自治州の自治権限の削減を企図する。そして89年3月、ミロシェヴィチは幹部会内の強い反対を政治力で抑えて憲法修正を強行し、コソヴォ自治州の行政権限を縮減した。これがコソヴォ自治州のアルバニア系住民の憤激を買い、さらに分離独立指向を強めることになった。
1989年にベルリンの壁が崩壊し、東欧諸国が雪崩を打つように社会主義制度を放棄していくのをみて、コソヴォ自治州のアルバニア系住民も影響を受け、89年12月に「コソヴォ民主同盟」を結成し、イブラヒム・ルゴヴァが党首に就いた。ルゴヴァの方針は政治交渉によって「果物が熟して落ちるように、コソヴォの独立を達成する」との方針を取ると表明した。
この間、アルバニア系住民の一部の若手の過激派は武力による独立を志向し、88年に「コソヴォ解放軍・KLA」を結成していた。当初、コソヴォ解放軍・KLAは粗暴な若者の集まりとして、アルバニア系住民にも相手にされなかった。
1990年7月、アルバニア系住民はカチャニクに集まり、秘密裏に「コソヴォ共和国憲法」を採択してコソヴォ共和国の独立を宣言する。このアルバニア系住民の行為は国際社会の関心を呼ばず、アルバニアとマレーシアが認めたのみであった。とはいえ、コソヴォ共和国の暫定大統領にルゴヴァが就任する。
91年6月にスロヴェニアとクロアチアがユーゴ連邦からの分離独立を宣言し、次いで92年3月にボスニアが独立を宣言して民族間に武力衝突が起こると、コソヴォ解放軍のメンバーはそれぞれ反セルビアの武装組織に入り込み、戦闘経験を積むことにする。交渉による分離独立を標榜する「コソヴォ民主同盟」は、92年5月にアルバニア系住民のみの独自の選挙を行ない、党首のルゴヴァを大統領に選出する。95年にNATO軍が軍事介入してクロアチアおよびボスニアで主要な戦闘が終結すると、KLAはコソヴォ自治州に帰還して組織の強化を図った。
コソヴォ解放軍は「テロリスト」から「自由の戦士」へと昇格する
1997年にアルバニアで社会主義制度から資本主義制度への転換過程で政情が混乱すると、コソヴォ解放軍はどさくさに紛れてアルバニアの武器を大量に入手し、本格的な武力闘争を開始する。98年に入ると、KLAはもはや無視できないほどに支配領域を広げた。しかし、セルビア共和国はかつてのユーゴ連邦解体戦争でセルビア悪説に苦しめられたことから、KLAに対する本格的な鎮圧に乗り出せずにいた。ところが、2月にゲルバード米特使がコソヴォ自治州を訪れ、穏健派を集めた会合でコソヴォ解放軍は「テロリスト集団だ」と明言する。ユーゴ連邦はこのゲルバード特使の発言をコソヴォ解放軍の鎮圧を容認するものと受け止め、本格的な治安活動を開始した。すると、国際社会はかつてと同様にユーゴ連邦がアルバニア系住民に対して迫害を行なっていると激しく非難し始めた。
そして98年3月、国連安保理はユーゴ連邦に対する武器禁輸制裁決議1160を採択する。さらに米国は6月にホルブルック米特使をユーゴ連邦に送り込み、コソヴォ解放軍・KLAと接触して認知行動に出た上で「自由の戦士」と讃え、ユーゴ連邦には鎮圧行動の停止を要求した。EUも同6月に外相理事会を開いて新規投資を禁止するなどの制裁を発動するとともに、ユーゴ連邦の治安部隊のコソヴォ自治州からの撤収を要求した。
国際社会はユーゴ連邦包囲網を敷く
G8も98年6月に経済制裁を決議するとともに、NATO軍による武力行使の可能性を示唆する共同声明を発表する。米・英・仏・独・伊・露の6ヵ国で構成する「連絡調整グループ」も緊急外相会議を開き、武器禁輸などの経済制裁で合意するなど、国際社会のユーゴ連邦包囲網は狭められて行った。コソヴォ解放軍は米特使の認知行動および国際社会の対応に乗じて戦闘活動を活発化させ、コソヴォ自治州の4分の1を支配するまでになる。
ユーゴ連邦としては国際社会の制裁決議を受けても、コソヴォ自治州の25%を支配された事態を放置するわけにはいかなかった。ユーゴ連邦の治安部隊は鎮圧活動を強化し、コソヴォ解放軍の4分の1の支配地区の大半を奪還した。この事態に危機感を抱いた国際社会は国連安保理を開き、9月23日に「即時停戦とセルビア治安部隊のコソヴォ自治州からの撤退」を求める決議1199を採択する。NATOは9月30日に大使級理事会を開き、国連安保理決議が履行されなければNATO軍による武力介入を検討する方針を決める。ユーゴ連邦は、コソヴォ紛争の実態と国際社会の対応との間に著しい乖離がある事態への対処に迫られた。そこでロシア外相の助言にしたがい、欧州安保協力機構・OSCEの調査団の受け入れを表明した。OSCEはこれを一旦拒否するが、すぐさま撤回し、コソヴォ停戦合意検証団・KVMを編成して2000人をコソヴォに派遣することを決定する。
欧州安全保障協力機構・OSCEコソヴォ停戦合意検証団はNATO軍の空爆の準備工作を行なう
米政府は、このOSCEコソヴォ停戦合意検証団・KVM団長に、曰く付きの米外交官ウィリアム・ウォーカーを就任させる。ウォーカーは駐エルサルバドル米大使に任じた際、エルサルバドル独裁政権を批判した教会への襲撃を容認し、シスターや子どもを殺害したことを容認し、擁護した経歴を持つ人物である。KVMの検証団員1600人は順次コソヴォに入っていくことになるが、ウォーカーKVM団長は検証団の中に米CIAや英MI6などの情報部員を多数潜り込ませるという作為を施した。コソヴォ自治州に入ったCIAなどの情報部員は、セルビア悪を印象づけるための捏造工作を行なうことおよびNATO軍が空爆を実行する際の標的を調査するとともに、コソヴォ解放軍と接触してセルビアの治安部隊の動向と空爆の情報を提供させるための衛星電話を渡すことを任務としていた。
ラチャク村虐殺事件を捏造する
99年1月、ウォーカー団長とCIA要員は計画通り、ラチャク村でのセルビア警察部隊による民間人虐殺事件を仕立て上げる。コソヴォ解放軍・KLAとセルビア警察部隊の戦闘で死亡したKLAの戦闘員を、民間人に仕立て上げて虐殺事件として捏造したのである。それを受けてNATO軍は直ちに空爆を実行すると主張したが、米・英・仏・独・伊・露の6ヵ国の「連絡調整グループ」は和平交渉による解決を求めた。
99年2月に「連絡調整グループ」が仲介して開かれた「ランブイエ和平交渉」は、メディアの接触を遮断する形で行なわれるという異常さを示したものの、交渉担当者はそれなりに努力をしたことから和平は成立するかに見えた。ところが、途中からオルブライト米国務長官が乗り込んで交渉を主導し、ユーゴ連邦が到底受容できないNATO軍のユーゴスラヴィア連邦全土への進駐を求めた軍事条項の「付属文書B項」を突きつけ、ランブイエ和平交渉を決裂させた。そして、和平交渉不成立の責任をすべてユーゴ連邦側に帰し、コソヴォでの「民族浄化」は一刻も猶予がならない事態であると言明した。その上で、国連安保理決議を回避し、NATO軍による「アライド・フォース作戦」に「人道的介入」の名を付け加えて空爆に踏み切る。
NATO軍の「ユーゴ・コソヴォ空爆」は既定路線
空爆直前の3月22日、ソラナNATO事務総長はクラークNATO軍最高司令官に対し、ユーゴ連邦空爆の理由として「1,セルビア軍の侵略で脅威にさらされたバルカン半島における平和を維持する。2,コソヴォ自治州における民族浄化を止める。3,NATOの存続と信頼性を確保する」の3つを伝えた。セルビア共和国軍がバルカン半島の他国を侵略した事実はないが、実態がどうであるかにかかわりなく、作戦を発動する理由としてNATOの存続が重要視されていたことが分かる。クラーク大将は、「我々には400機の飛行機がある。これまで数ヵ月かけて練られた計画がある。乗員の準備は整っている。兵器の準備も整っている。セルビア軍の能力は分かっている。必要とあらば迅速に、手厳しく攻撃を行なうだろう」と述べた。NATO軍司令官の発言は、ランブイエ和平交渉を儀式としての形式に貶めるものであり、NATO軍の空爆が既定路線だったことを意味した。メディアや国際世論の大勢は、ラチャク村事件などでセルビア悪が印象づけられていたため、NATO軍の空爆が国連安保理決議も経ない国連憲章違反であり、国際法違反であるにもかかわらず、人道的介入の美辞に幻惑されて容認した。
「オペレーション・アライド・フォース・同盟の軍事作戦」は大艦隊と1000機の航空機による大規模空爆
NATO軍が3月24日未明に発動した「アライド・フォース作戦」に参加した国は、アメリカ、イギリス、フランス、イタリア、ドイツ、ベルギー、オランダ、スペイン、ポルトガル、ノルウェー、デンマーク、トルコ、カナダの13ヵ国である。
NATO軍の攻撃態勢は、アドリア海に米海軍の原子力空母「セオドア・ルーズベルト」艦隊、ミサイル巡洋艦「ヴェラ・ガルフ」、「レイテ・ガルフ」水陸両用の強襲揚陸艦「キアサージ」を配置し、英海軍は軽空母「インヴィンシブル」艦隊と潜水艦を配置し、フランス海軍は空母「フォッシュ」艦隊を配置し、その他に駆逐艦9隻、フリゲート艦10隻、英海軍のミサイル潜水艦「スプレンデッド」など潜水艦3隻を配備した。
投入されたおよそ1000機の航空機の種類は、戦闘爆撃機;F14、F15、F16、F/A18、A10、EA6B、ミラージュ2000,ミラージュF1C、ミラージュIVP、エタンダールIV、ジャガー、トルネードECR、トルネードGr1、AV8BハリアーⅡ、ハリアーGr7、CF18、EF18。戦略爆撃機;B52,B1B、B2、F117。早期警戒管制機;E2C、E3AWACS、P3C、E8JSTAR。有人偵察機;U2R/TR1、EP3、ES3、RC12。無人偵察機;プレデター、ハンター、クレッセレール、CL289、フェニックスUAV。輸送機;C17、C130、C160,CASA212,CASACN235,KC135。ヘリコプター;EC135、AS532など、大戦並の本格的な陣容であった。
ドイツ空軍は第2次大戦後、初めて自国防衛以外のNATO軍のこのユーゴ・コソヴォ空爆に戦闘攻撃として参加することになった。これ以後、ドイツはNATO軍の一員として外国での軍事行動に積極的に加わるようになる。
アライド・フォース作戦実施の概要アライド・フォース作戦による戦闘は、米艦と英潜水艦スプレンデッドからの巡航ミサイルの発射で始められ、次いで米・英本土から戦略爆撃機を飛来させ、B2がJDAM・GPSミサイルを発射し、B52がミサイルと大量の通常爆弾を投下した。続いて参加11ヵ国の戦闘攻撃機が、CIA要員などが調査した爆撃目標に爆弾を投下する。NATO空軍の戦闘機は迎撃したユーゴ連邦のMIG29と空中戦を行なって数機を撃墜。4月に入ると、NATO軍はミサイルによるユーゴ連邦軍の空軍基地の爆撃と空中戦による撃墜によってユーゴ連邦の制空権をほとんど掌握した。
ユーゴ連邦側としては、対空ミサイルと火砲で対抗するしかなかったことから、NATO軍はほしいままに爆撃を加え続けた。NATO軍の総出撃回数3万6000回のうち、米軍機の出撃回数は2万2300回で62%を占めた。他の同盟国の出撃回数は1万3700回。爆撃回数は1万700回。ミサイルおよび爆弾は、JDAM誘導ミサイル、JSOW誘導ミサイル、トマホーク巡航ミサイル、AGM130、GBU15、AIM120、ナイトホークFLIR、GBU87クラスター爆弾。500ポンド、1000ポンド通常爆弾、GAU10劣化ウラン弾などを使用した。
3月24日から6月9日までの78日間におよんだユーゴ・コソヴォ空爆は、セルビア共和国とコソヴォ自治州に多大な損害を与えた。ユーゴスラヴィア連邦の発表では、民間人死者1200人以上、負傷者5000人、工場・発電所200ヵ所、学校・教育関係施設300ヵ所、橋梁50ヵ所以上、主要道路15ヵ所、民間空港5ヵ所などである。また駐ベオグラード中国大使館にもミサイル3発が撃ち込まれた。
このNATO軍の軍事行動は、国連安保理決議を回避して主権国家の内政に武力干渉するという、のちの米・英によるアフガニスタン戦争およびイラク戦争の国際法違反行為の端緒となるものでもあった。
アライド・フォース作戦は列強によるユーゴ連邦解体戦争の集大成
NATO加盟国は世界の55%のGDPを占めているが、ユーゴスラヴィア連邦は世界のGDPの1%を占めるにすぎない。このNATOの圧倒的な軍事同盟の軍事力に対抗できる国は存在しない。人口で比較しても5億5000万人の国々が、1100万人あまりの弱小国に突き落とされたユーゴ連邦に仕掛けた、いわば人道的介入の名を冠した懲罰的軍事力行使であった。それを如実に示すNATOの空爆の態様は、6月に入ってユーゴ連邦がNATO軍の停戦条件を受容すると表明してからも、激しい空爆を続けたことに表されている。6月6日に430回、7日に480回、8日に650回というすさまじい回数の破壊行為を弄んだのである。
のちにNATOの事務総長に就任することになるロバートソン英前国防相は空爆開始当日に開かれた英国の下院で、「ラチャク村事件に至るまでは、コソヴォ解放軍・KLAの方がユーゴ連邦政府当局より、コソヴォ自治州での多くの死に責任がある」と、NATOの空爆が人道的介入ではないことを証言している。のちに、米国家安全保障問題担当補佐官のサンディー・バーガーは、ユーゴ・コソヴォ空爆の要因を、「1,東欧の安定の確保。2,民族浄化の阻止。3,NATOの信頼性の確保」の3点を挙げた。要するに、米国をはじめとした西側が権益を確保するために人道的の名を冠してユーゴ・コソヴォ空爆を実行したということである。
「低強度紛争」に過ぎなかったコソヴォ紛争
サンディー・バーガーは空爆の要因として民族浄化の阻止を上げているが、のちの検証によれば、NATO軍による空爆前のコソヴォ紛争におけるアルバニア系およびセルビア人双方の犠牲者数は、合わせて1500人前後である。民族浄化などに該当する犠牲者数とは到底言えないこの「低強度紛争」に類する武力紛争に、NATO軍が大規模な軍事作戦を行使したのは、盟主としての米国の「新世界秩序」の形成にユーゴ連邦が妨げになると見なされたからである。
「新世界秩序」の形成に従わない国には懲罰を加える
作家でありジャーナリストでもあるマイケル・イグナティエフはNATO軍司令官の言葉を引用し、「NATO軍が99年に『ユーゴ・コソヴォ空爆』の決め手にしたのは、99年3月までコソヴォでミロシェヴィチが人権を無視していたことでも、空爆が始まった後で彼が大規模なアルバニア人の立ち退きを強行したことでもない。一番の問題は、NATOの意思をこの指導者に押し付ける必要があったことだ。はじめにボスニアで、次いでコソヴォでミロシェヴィチが挑戦的な態度をとったことが、アメリカとヨーロッパの外交手腕およびNATOの威信を傷つけたのだ」と述べている。
NATO諸国はユーゴ・コソヴォ空爆の理由として民族浄化を止めるための人道的介入を唱えたが、それは世界の世論を惑わすための表向きのものであり、ユーゴ・コソヴォ空爆は西側の支配権を確立するためのユーゴ連邦解体戦争の集大成として実行したものであった。NATOの盟主としての米国は、この解体戦争によって東欧に地歩を築くことを、世界覇権の前哨戦と位置づけていたのである。
ユーゴ・コソヴォ空爆は世界の安全保障環境に深甚な影響を与えることになる
このユーゴ・コソヴォ空爆は、想定外の影響をあたえることになる。
ロシアは当時親米のエリツィンが大統領に就任していたが、このNATOのユーゴスラヴィアへの軍事行動を回避するために、「連絡調整グループ」による和平交渉に参加しただけにとどまらず、各国に特使を派遣して和平は可能であるとして説得に努めた。しかし、社会主義制度から資本主義制度への転換過程で軍備も弱体化していたロシアの意向などほとんど顧みられることはなかった。エリツィンは凡庸な人物だったが、安全保障関係者はそうではなかった。NATO軍がユーゴスラヴィアへの空爆を開始したことに敏感に反応したのである。NATOが空爆実行中の99年5月には、安全保障関係者が会議を開き「新戦略概念」を策定して新「軍事ドクトリン」を策定し、さらに核戦争への対応演習を西部地区と極東で実施した。ロシアにとってNATO軍は交渉の相手ではなく、もはや仮想敵との位置づけとなったのである。クリミア半島の併合もこのことと無関係ではない。クリミア半島にNATO軍の基地が建設されれば、ロシアは黒海への出口を抑えられることになるからである。それからのロシアは、軍備拡張政策へと転換することになった。
中国はもっと深刻であった。駐ベオグラード大使館にNATO軍のミサイル3発が撃ち込まれたからである。NATOは誤爆であるとして謝罪を表明したが、中国はそれを信じるほど単純ではない。それまで、中国の防衛体制は専守防衛として、陸軍に重きが置かれていた。また、NATO軍は遠い存在であり、それに対抗する意識は希薄であった。しかし、NATO軍が中国への干渉を視野に置いていることを目の当たりにして、安全保障体制の転換を迫られることになった。そこで、陸軍を大幅に減少させて、海空軍を増強し、ミサイルなど電子戦への対応を強化することとなったのである。
米国防総省が、中国の軍備拡張に危惧を示し、21世紀半ばには核弾頭を1000発くらい所持することになるだろうとのコメントを出しているが、それはあながち的はずれではない。ただし、その淵源がNATO軍のユーゴ・コソヴォ空爆に求められると自覚しているかどうかは明らかではない。知悉していたとしても、軍産複合体の利益のためにも脅威を唱え続けるだろう。
さらにNATO加盟国の英・仏・独は艦艇を極東に派遣して軍事区連を繰り返して包囲網を敷いているが、これが中国にどのような脅威を抱かせることになるかについては、意識的ではないように見える。
<参照; コソヴォ自治州・ユーゴ・コソヴォ空爆、米国の対応、タチ、ハラディナイ、チェク>
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「人道的介入」は覇権・侵略戦争を合理化する手段
歴史上、覇権戦争あるいは侵略戦争を合理化する手段として「人道的介入」なる用語が頻繁に使われてきた。スペインによるキューバへの迫害。日本の現地住民を保護するとした中国への侵略。イタリアの奴隷を解放するとしたエチオピアへの侵略。1938年にドイツ軍が行なったドイツ人住民を虐殺から守るとの理由を付けたチェコスロヴァキアのズデーテン地方の併合。近年では、1993年の国連軍のソマリアへの軍事干渉。1993年のボスニアへのNATO軍の武力干渉。1999年のNATO軍によるユーゴ・コソヴォ空爆など枚挙にいとまがない。2003年の有志連合軍によるイラク侵略戦争でもフセイン・イラク大統領の圧政から民衆を解放するという目的が付け加えられた。これらの例が示すように、人道的武力介入は強者の弱者への覇権・侵略戦争、あるいは武力干渉の際の弁明に使われてきた。
人道的介入の妥当性の条件
1999年3月のコソヴォ紛争へのNATO軍の軍事介入としてのユーゴ・コソヴォ空爆では、ユーゴ連邦がアルバニア系住民を迫害して大規模な「民族浄化」を行なっているとし、人道的軍事介入の急迫性がことさらに強調された。国際法学者の最上敏樹教授によれば、人道的介入の正当性・妥当性及び合法性を得るには次の条件を満たすことが求められるとしている。「1,甚だしい人権侵害が存在すること。即ち最高度の人道的緊急事態が存在すること。2,平和的手段が尽きており、武力行使が最後の手段であること。3,介入の目的が甚だしい人権侵害の停止に限定されること。4,国益の実現や体制の転覆などを含まないこと。5,手段は状況の深刻さに比例したものであること。6,取られた措置の結果として多くの人が迫害から逃れられ、生命が救われるなど、相応の人道的成果が期待できること。7,安保理の承認を得ること」など、恣意性に制限を加えるべきものとの考え方を示した。最上敏樹はユーゴ・コソヴォ空爆について1,と2,の消極的該当可能性を指摘しているものの、実際にはNATO軍のコソヴォ紛争に関する人道的武力介入は、これらの条件の中の1つとして充足したものではなかった。ドイツの連邦情報局・BNDが、コソヴォにおける殺人はコソヴォ解放軍の武力行使による死者が多いとの報告、および英国防相が空爆開始当日の議会でコソヴォ紛争は「低強度紛争に過ぎない」との答弁をしていたからである。
NATOの威信と新秩序のための空爆
NATO軍が合法性も妥当性もないユーゴ・コソヴォ空爆に踏み切った理由の1つに、空爆の最中の4月にNATO創立50周年を迎えることが含まれていた。冷戦によるソ連圏との対立で1949年4月に創設されたNATOは、冷戦が終結した後に対抗軍事同盟として1955年に組織された「ワルシャワ条約機構」を1991年7月に解散させたこともあり、新たな存在理由を見出す必要に迫られていた。ユーゴ・コソヴォ空爆は、NATOの存続の必要性を受容させる恰好の材料として利用されたのである。コーエン米国防長官はユーゴ・コソヴォ空爆に際し、「NATOの新しい役割」を受け入れるよう各国の担当相に問いかけた。「もし、NATO軍がこの状況下でミロシェヴィチに脅威を与えられないとしたら同盟を組んでいることに何の意味があるだろうか」と軍事行動に踏み切ることを促したのである。ブレア英首相は、「生誕50周年に、NATOを活性化しなくてはならない」とNATO軍のための軍事行動を臆面もなく正当化した。アンソニー・レイク米国家安全保障問題担当大統領補佐官は、「コソヴォはいわば、我々の目の前で起こっている事件である。冷戦の間中、われわれは自由市場民主主義に対する世界的脅威を封じ込めてきた。今や我々は民主主義と自由市場の勝利を強固なものにしていくことができる」と述べた。ユーゴ連邦解体戦争が起こされた理由に、NATOの存続そのものとは別に人道的に係わりのない新自由主義による市場経済の維持・拡大が加えられていたのである。
コソヴォにおける軍事衝突に急迫性は見られないとの「公的機関の報告」
人道的介入の口実にされたコソヴォ紛争は、自治州の80%を超えるアルバニア系住民が結成した武力組織であるコソヴォ解放軍・KLAが、武力によるセルビア共和国からの分離独立闘争を始めたことによる。当初、欧米はコソヴォ解放軍・KLAを「テロ組織」としていたが、セルビア治安部隊が治安維持の一環として鎮圧行動を取り始めると、突如このKLAの武力集団を「自由の戦士」として認知し、セルビア共和国政府がアルバニア系住民の民族浄化をしているとして非難し始める。これが、NATO軍の武力による人道的介入を正当化するための前段である。
コソヴォ自治州の実態は、NATOが有無を言わさずに軍事行動を起こさなければならないほどに切迫していたわけではなく「低強度紛争」というべきものであった。NATO軍が空爆を実行する直前までのコソヴォの状況について、国連やOSCEなどの公的機関が作成した次のような報告書がそれを示している。
1)国連の報告;
「プリシュティナのカフェでの爆弾の爆発によるセルビア人青年の傷害などコソヴォ解放軍・KLAによる殺害数の増加が観察され、それに対するセルビア治安部隊の報復行動が加速している。セルビア治安部隊とコソヴォ解放軍・KLAの衝突は比較的小規模だが、一般市民が殺害や処刑、拷問や誘拐を含む暴力的行為の主な標的となりつつある。コソヴォ解放軍によるセルビア人住民への迫害などがあり、コソヴォ問題はセルビア治安部隊による一方的な民族浄化といわれるような事態ではない」と分析している。
2)赤十字国際委員会・ICRCの報告;「98年12月の最も深刻な衝突は、隣国アルバニアからコソヴォに侵
入しようとした
コソヴォ解放軍・KLAとユーゴ国境警備隊との間で起こったもので、コソヴォ解放軍の兵士36人が死
亡した」と報告。特筆すべきはコソヴォ自治州内の武力衝突ではなく、「隣国アルバニアに拠点を置
いたコソヴォ解放軍・KLAが越境した際に国境警備隊と衝突したことが緊迫した状態にある」と報告し
た。
3)OSCEの報告;「5名の高齢のセルビア人住民の誘拐など、公共の場での一般市民に対する無差別銃撃や爆弾による都市型テロリズムが増加している。一般的に言って、コソヴォ解放軍・KLAによるセルビア警察と市民への攻撃があり、ユーゴ連邦当局がそれに対して遙かに大きな反撃を行なうという形をとっている。セルビア治安警察による追放は、反乱軍・KLAにより制圧された地域と進入路沿いに集中しており、軍事的な理由が見てとれる」と、セルビア治安部隊の軍事行動は治安活動というべきものであることを認知している。
4)NATOの報告;
「コソヴォ解放軍・KLAが部隊や司令部を駐留させていると疑われた村々での、セルビア人住民への苛酷な攻撃に対するセルビア治安部隊による6回の報復などのKLAとの交戦に加え、KLAおよびセルビア治安部隊による数十件の事件がある。死傷者はほとんどが軍人である。コソヴォ・ポーリェ市副市長の誘拐と殺害は、コソヴォ解放軍・KLAによるものである」と記述。空爆を行なうことになるNATOの調査でも「民族浄化を目的とした武力行使は行なわれておらず、むしろコソヴォ解放軍の行為に行き過ぎがある」と指摘している。
5)EU監視団長の証言;
「NATO軍の空爆の前までは、セルビア治安部隊が民間人を攻撃してアルバニア系住民を家から追放するのを見たことはなく、そのような報告書を受け取ったこともない。コソヴォ解放軍・KLAが常に衝突を煽っていることを確認している。私はコソヴォから退去してドイツに戻ったとき、コソヴォに関するメディアの報道が自治州の現実との間に重大な矛盾があるのを見てショックを受けた。私が送ったコソヴォの状況報告は、政府の公式な刊行物には反映されなかった」と、公的機関の対応とメディアの報道のあり方への疑問を呈した証言をICTYで行なっている。
6)人権団体「国際人権連盟」および「フランス・リベルテ」の調査報告;
「7ヵ月にわたるコソヴォ自治州におけるセルビア治安部隊とアルバニア系武装組織との戦闘において、死者数は700人以上出ている」と98年9月に発表。これが、ユーゴ・コソヴォ空爆が行なわれる半年前の実態である。
コソヴォ紛争は「低強度紛争」に類するものであった
これらの公的機関のコソヴォの状況報告は、NATO軍が大規模な空爆を行わなければならないほど
の急迫性を示してはいない。にもかかわらず、米国やNATOは種々の報告を無視し、セルビア治安
部隊がアルバニア系住民を数万人から数十万人規模での民族浄化を行なっていると誇大に宣伝し、
空爆は人道上喫緊の課題だと主張した。
のちの信頼できる調査によると、空爆前のコソヴォ紛争の戦闘による死者数は、「国際人権連盟」の98年9月の中間報告では700人前後との報告を行なっているが、その後も戦闘が続いたことを考慮すると、アルバニア系およびセルビア人双方合わせて1500人前後だとの報告は妥当性を持つ。1500人の犠牲者数をどのように評価するかは難しい判断が伴うが、紛争としては「低強度紛争」に該当し、NATO軍が大軍を投入して空爆を行なわなければならないような緊急事態でなかったことだけは明白である。
ユーゴ・コソヴォ空爆に合法性・妥当性はない
「国際司法裁判所・ICJ」は、ニカラグアに関する1986年判決で次のように判示している。「米国は軍
事介入の理由の1つとしてニカラグアでの人権侵害を挙げたが、武力行使は人権の保障を監視したり
確保したりするための適切な方法ではない」と。この判示は武力行使によって人権を保障するというや
り方は誤りだと指摘している。
これはNATO軍のユーゴ・コソヴォ空爆にも該当する。国際法上、人道的介入のための武力行使の
合法性を得るには、「1,国連安保理もしくは総会の決議を経ること。2,国連に授権された数ヵ国で組
織し、国連の指揮下に置かれた兵力であること。3,国連の強制行動の一環であること」でなければな
らないとされている。
NATO軍のユーゴ連邦への武力行使が安保理決議を回避したことについて、NATOは既に安保
理決議1160、1199、1203によって授権されているとの主張もなされた。しかし、安保理決議1160
は、旧ユーゴスラヴィア連邦に対する武器禁輸を決議したものであり、決議1199はコソヴォにおける
即時停戦とセルビア治安部隊の撤退を求めたものであり、決議1203はOSCEコソヴォ停戦合意検
証団の調査受け入れを求めたもので、これらの安保理決議は武力行使を容認したものではない。即
ち、NATO軍の空爆は国連から授権されておらず、国際法上の合法性を獲得していない違法なもの
といえる。
米国が主導するNATO諸国は人道的介入を決定するに当たり、安保理での審議を巧妙に避けた。
米政府は国連の諸機関の関与を回避するために米・英・仏・独・伊・露6ヵ国で構成する連絡調整グ
ループを引き込んでランブイエ和平交渉を行なわせた。交渉は困難を極めたがそれでも和平の兆し
が見えるまでに詰められた。そこにオルブライト米国務長官が乗り込んで交渉を主導し、ユーゴ連邦
側に占領条項ともいうべき軍事条項「付属文書B」を突きつけて拒否させ、交渉決裂の責任をすべて
ユーゴ側に被せてNATO軍によるアライド・フォース作戦を発動したのである。
ユーゴ・コソヴォ空爆は非人道的・懲罰的な軍事攻撃
NATO軍が人道的介入の名において実行した99年のアライド・フォース作戦は、人道的の名に反す
る苛烈なものであった。NATO軍の爆撃は軍事施設に限定されたものではなく、ユーゴスラヴィア連
邦全土の都市を対象として電気、水道、ガス、交通機関、道路、橋梁、病院、診療所、産業施設、テ
レビ・ラジオ局などインフラのすべてに及び、住民は苛酷な生活を強いられた。コソヴォ自治州から遠
く離れたベオグラードやニシュや、反ミロシェヴィチ派の拠点でもありハンガリー人が多数居住してい
るヴォイヴォディナ自治州の州都ノヴィ・サドも徹底的に爆撃した。その他の反ミロシェヴィチ派の中心
都市でもあるクラグイェヴァツ、チャチャク、バリエヴォも空爆で大きな被害を受けた。
反ミロシェヴィチ派のマティッチは「空爆は1000万人もの人々の生活に障害をもたらしただけでなく、
コソヴォとセルビアで生まれつつあった民主勢力に打撃を与えた。芽を出そうとしていた種を破壊し、
芽を出すことができないようにしてしまった」と嘆いた。鉄橋を通過中の列車も爆撃の対象となり、軍事
的に使用されることのない小さな橋も破壊され、避難中のアルバニア系住民の車列も爆撃された。発
電・変電所も爆撃されたために、水道も止まり、医療行為も不可能となった。
メアリー・ロビンソン国連人権高等弁務官は「橋の上に民間人を乗せたバスがいるかどうか確かめよう
がない場合、その橋を吹き飛ばして良いものだろうか。人間は付随的被害などではなく、殺され、傷つ
けられ、生命を破壊される生身の人間に他ならないからだ」とNATO軍の空爆の態様を批判した。さら
にNATO軍は、中国当局がユーゴ・コソヴォ空爆を批判した上、ユーゴ連邦に通信の便宜を供与した
として懲罰的に在ベオグラード中国大使館にミサイルを3発撃ち込んだ。米国は、中国大使館へのミ
サイル攻撃は古い地図を使用したための誤爆であると弁明したが、当然ながら中国はこの説を受け入
れていない。中国とロシアはこのユーゴ・コソヴォ空爆の発動を見て、自国の防衛体制の見直しを迫ら
れることになる。NATOを仮想敵国と措定することになったからである。中・ロ両国は電子戦への対処
と核兵器体制の見直しをするという、世界にとって深刻な悪影響を与えることになったのだ。
人道的介入の名に反する非人道的兵器を使用
NATO軍はこの空爆で非人道兵器とされている劣化ウラン弾およびクラスター爆弾も使用したため、
コソヴォのプリシュティナの病院に限っても数百人の人々がこのクラスター爆弾被害の治療を受けるこ
とになった。クラスター爆弾は処理に時間がかかるため、コソヴォ自治州の一部は不発弾で人の住め
ない土地になっている。
ユーゴ連邦解体戦争で使用された劣化ウラン弾は推定13トンだといわれているが、ユーゴ・コソヴォ
空爆では3万1000発(ユーゴ連邦の発表では5万5000発)10トンが投下された。NATO軍は人道
的介入の名を冠すれば、いかなる非人道的な兵器を使用することも、化学工場を破壊して環境を汚
染することも、インフラのすべてを破壊して住民の生活を困苦に陥れるという非人道的な爆撃を行なう
ことも、許容されると認識しているように見える。
アルバニア系住民側の犯罪は見逃せとの指令
NATOの威信と存続意義のためのユーゴ・コソヴォ空爆によってコソヴォ自治州に一時的な停戦状態
をつくり出したものの、その後も混迷の度合いが増したのみで民族間の和平を実現するには至ってい
ない。ユーゴ・コソヴォ空爆が終結して6ヵ月を経た99年12月、アムネスティ・インタナショナルは「コソ
ヴォ解放軍による、コソヴォ自治州に住むセルビア人、ロマ人、イスラム教徒スラヴ人、穏健派アルバ
ニア系住民に対する暴力は、先月来激増した」と報告した。
空爆終了後に、コソヴォ解放軍はコソヴォのセルビア人およびロマ人住民を迫害して追い出し、コソヴ
ォ自治州をアルバニア系住民のみに純化してコソヴォの独立は妥当性を有しているとして内外に認め
させようとしたのである。このコソヴォ解放軍などの脅迫行為によって、およそ20万人の少数民族がボ
スニアやセルビアに難民・避難民化して脱出した。
人道的介入がレトリックではない真の意味で人命を迫害から護るのを目的としたのであれば、空爆
の前後を問わず、アルバニア系住民だけでなく少数民族のセルビア人やロマ人への迫害も護らなけ
ればならなかったはずである。
実際には、空爆後に駐留することになったNATO軍の平和維持部隊・KFORの兵士たちは、人道
的介入とは乖離した「アルバニア系住民の犯罪を見逃せ」という命令を受けていた。フランスのKFO R司令官は、「むろんこれは狂っているが、それがNATO軍からの上層部からの命令なのだ」と述べている。現実にコソヴォ解放軍の犯罪は許容されたため、彼らはほしいままに少数民族を迫害し続けた。
人道的介入の米軍の意図はコソヴォ自治州に地歩を築くこと
NATO軍の空爆は人道的介入から逸脱した懲罰的な妥当性・合法性を著しく欠いた軍事力行使であ
るのみか、支配圏の拡張を目的としていた。米軍は空爆後、直ちにコソヴォ自治州に広大な「ボンド・
スティール軍事基地」を建設し、バルカン半島に地歩を築いた。米政府は覇権をバルカン周辺から中
東の産油国に及ぼすために、意向に従わぬセルビアに懲罰を加え、コソヴォ自治州にイスラム世界で
の数少ない親米国家を築くことに成功したのである。コソヴォ自治州の州都プリシュティナにはあちこ
ちにクリントン米大統領の彫像および肖像画と星条旗が掲げられ、街路には米政府高官の名が付けら
れて米国は救世主の如く扱われている。
結局この武力介入は、強国が弱小国を従属させるという目的に人道的なる美辞に類する文言を付
け加え、「空爆が適切で慈悲深い行為」であるとの錯覚を国際社会に与えたのみであった。NATO軍のユーゴ・コソヴォ空爆は、人権活動家も、人権派を標榜する政治家ばかりか知識人といわれる者たちも眩惑され、人道的なるものとして支持した。その結果は戦争に関する誤った観念を植え付けたばかりか、膨大な破壊と殺戮を生み、アルバニア系住民とそれ以外の少数派との対立を深刻化させ、相互の間に抜きがたい不信と憎悪を増幅させることになったのである。
NATO軍の武力支援によって独立を獲得したコソヴォ
2007年、コソヴォ自治州の最終的地位はコソヴォ解放軍・KLAによる暫定政府の強硬派の独立要求に添って、NATO主要国が国連安保理に持ち込んだが、独立承認決議案の採択に疑義が出されたため、安保理での採決は見送られた。コソヴォの最終地位は、再び6ヵ国の連絡調整グループの調整に委ねられることになった。
しかし、連絡調整グループの調整が停滞する中、08年2月にコソヴォ自治州のタチ暫定政権はコソヴ
ォの独立宣言を発する。米国ならびにEU諸国の多くは予定調和の如く直ちに承認を表明したが、こ
のようなコソヴォ自治州の独立のあり方に疑義を抱いた国が少なくなく、1年を経ても国連加盟国192
ヵ国の内54ヵ国しか承認していない。
人道的な戦争は存在しない
マイケル・ウォルツァーは「正戦と不正戦」という1977年に発刊した著書で、膨大な歴史上の武力紛争の事例を検証し、「これぞ人道的介入と呼べるものは極めて稀である。僅かに人道的な動機の入り交じった事例があるにすぎない」と述べ、その僅かな例として「1,スペイン統治時代の1898年にキューバを支援した米国の介入。2,1971年のバングラデシュ独立戦争時のインドの介入」の2つを上げている。米国のキューバへの介入を人道的とするのには疑問もあるが、膨大な軍事行動の中で人道的介入と言えるものがほとんどないことをこの研究は示している。
その後米国は、アフガニスタンではアルカイダおよびタリバンからの、イラクではフセインからの圧政を
解き放つという人道を謳った武力行使を行なったが、両国とも死傷者の山を築いただけでなく、イラクで
は米軍占領時の偏った統治政策のために、スンニ派とシーア派の対立を抜きがたいものとし、米軍が20
10年に撤退した後も武力紛争が後を絶たない。アフガニスタンでも2001年に空爆を開始して以来、20
年を経た2021年に米軍が撤退を実施してようやく終結を迎えた。この20年間におけるアフガニスタン戦争の犠牲者数は、米軍が2400人を超えた。一方のアフガニスタン人は16万7000人と数えられている。この非対称の犠牲者数は、米国が主導するNATO軍がいかに人命を軽視しているかを表している。
ユーゴ・コソヴォ空爆およびアフガニスタン戦争ならびにイラク戦争は、人道的な武力行使などあり得
ない例として歴史的に記録されることになろう。
<参照;ユーゴ・コソヴォ空爆、NATOの対応、ランブイエ和平交渉、アライド・フォース作戦>
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
ウランによる放射能障害は永遠に継続する
ウランは天然に存在する最も重い元素で、原子番号は92である。天然ウランには、ウラン・U234、U235、U238の3種があり、U238が99.27%、U235が0.72%、U234が0.0054%含まれている。このいずれもが放射能を持っているが、U235は熱中性子でも核分裂の連鎖反応をするのに対し、U238は高速中性子を衝突させない限り核分裂の連鎖反応はしない。天然ウランは鉱石として地中に埋設されたままであれば、放射線として外部に透過することはほとんどないので生体に害を与えることはないが、採掘して精製し、利用される過程でさまざまな害悪をもたらすことになる。
核兵器や原子力発電として有用なのは主としてU235であり、これを原子力発電や核兵器などの用途に応じて3%から90%以上に濃縮する。その濃縮過程および原子力発電で使用済み燃料として廃棄されるのが、「劣化ウラン」と称されている放射性物質である。90%以上に濃縮されたウラン235は核兵器として使用される。
放射線には主としてα線、β線、γ線の3種がある。α線はヘリウム原子核の重い放射線であり、透過距離は数センチと短いが、生体内に取り込まれると強い破壊力をおよぼし、内部から細胞を破壊し、免疫系や遺伝子に作用してさまざまな疾患や癌などを発症させるとともに、先天性異常をももたらす。β線は電子線であり、飛距離は長く、身体を透過する際に細胞を傷つけてさまざまな疾患を発症させ、遺伝子にも影響を与える。γ線はX線と同様、電磁波と同じ挙動を示して身体を易々と貫通するが、その際細胞を破壊し、さまざまな疾患を発症させて遺伝子にも変異をもたらす。ウランは放射能のみではなく重金属としての化学的毒性を持っており、主として腎臓障害をもたらし、時としては死に至らせる。
劣化ウランに含まれる放射性物質は、濃縮過程で廃棄されたものは主としてU238やU235だが、U235やU238はα線とγ線を放出し、崩壊過程でトリウム・Th234などが生成され、それがβ線を放出するのでα線、β線、γ線の全てを放出していることになる。
U235とU238が原子力発電の使用済み燃料として使われると、U235やU238以外にプルトニウム・Pu239やストロンチウム・Sr90およびセシウム・Cs137などが含まれ、Pu239はα線とγ線を放出し、Sr90はβ線を放出し、Cs137はβ崩壊してγ線も放出し、その他の生成された放射性核種も放射線を出し続ける。U235の半減期は7億年、U238の半減期は45億年、Pu239の半減期は2万年、Sr90の半減期は28年、Cs137の半減期は30年であるが、人体に完全に影響を及ぼさなくなるにはその10倍の年数が必要といわれている。
劣化ウランの兵器としての有用性と猛毒性
金属ウランは硬度が高いこと、比重が18.9で鉄の2.4倍と重いことなどの性質を有している。劣化ウランはその金属としての性質から、航空機の平衡錘、戦車等の装甲板、放射能防御物、砲弾、地雷、バンカーバスター爆弾、クラスター爆弾にも使われている。その中で銃砲弾としての劣化ウラン弾の使用量が最大である。劣化ウランを弾丸として利用することを考え出したのは、金属ウランの材質としての優れた性質からだが、廃棄物であるためにほとんど無料で手に入るので安価であること、および増大するウラン残滓を処理するという目的に適っているからでもある。米国防総省はこの軍事的可能性に注目し、既に1950年代から研究に着手していたが、本格的な兵器開発に取り組んだのは1970年代に入ってからである。
劣化ウランは弾丸や爆弾の先端部分に成型して使うと、弾頭が戦車の装甲板やコンクリート隔壁や岩盤をも容易に貫通する。しかも、鋼鉄装甲板や隔壁を貫通する際に高温を発して燃焼するために内部を焼き尽くすとともに、周囲にミクロン単位の微粒子を粉塵として撒き散らすことになる。ミクロン単位の劣化ウラン微粉末は人体の外皮に付着してα線やβ線を照射し続けて皮膚癌を起こす。呼吸よって肺に取り込まれると内部に付着し、あるいは血流によって全身を回り、その過程でα線やβ線を内部から照射して細胞を損傷して白血病や癌やその他の疾患を多発させる。破壊対象に命中しなかった劣化ウラン弾は、地下0.5m~6mほど潜り込んで地下水に浸透して汚染する。
「湾岸戦争」で膨大な劣化ウラン弾を使用し甚大な被害を出す
劣化ウラン弾が実戦で本格的に使用されたのは、1991年のイラクを対象とした湾岸戦争が最初である。このとき、多国籍軍がイラクに対して使用した劣化ウラン弾の数量は、95万発で300~800トンに及ぶといわれている。使用量に幅があるのは米軍が秘匿しているために推定量となるからである。
米陸軍は試験場や訓練場での射撃演習を通して劣化ウラン弾の粉末が人体に悪影響を与えることは突き止めていたが、湾岸戦争に際して多国籍軍兵士にさえ知らせることはなかった。米軍はイラクに侵攻すると劣化ウラン弾をイラク軍の戦車に撃ち込み、ほとんどの戦車を破壊した。劣化ウラン弾の害を知らされなかった米軍兵士は、防護措置を取ることなくイラク戦車を破壊した際にミクロン単位の粒子となって飛散した劣化ウラン弾の粉塵の中を通過し、あるいは戦果を確認するために戦車の中に入り込んで劣化ウラン弾の粉塵を吸引した。このため多国籍軍の主として米軍兵士に「湾岸戦争症候群」を発症させた。
湾岸戦争症候群とは、「慢性疲労、持久力の消失、咽喉痛、咳、皮膚発疹、寝汗、吐き気および嘔吐、下痢、めまい、頭痛、記憶喪失、混乱、視覚疾患、筋肉の痙攣、関節痛と移動能力の欠如、筋肉痛、内分泌腺の肥大、歯科的疾患、器官の損傷、白血病、遺伝子の欠損、新生児の奇形」などである。放射線は、免疫系統だけでなく遺伝子をも傷つけるので、劣化ウラン弾の微粉末汚染による症候群は本人を苦しめるだけでなく、遺伝してその子どもにも先天性障害となって現れた。湾岸戦争に派遣された69万人の多国籍軍のうち、米兵の18万5700人が湾岸戦争症候群なる疾患にかかり、この内1万人近くが死亡している。しかし米国防総省は、劣化ウランは無害であり、症候群はイラクの化学兵器が原因であると主張し続けている。イラクが化学兵器を使用したという証拠が見つかっていないことからすると、この主な原因が劣化ウラン弾にあることは疑う余地がない。
劣化ウラン弾による疾患を否定するための米国防総省の調査
感染症と異なり、重金属汚染や放射線障害の因果関係の立証は困難である。そのため米国防総省は因果関係を否定し続けた。しかし、疾患した帰還兵士の訴えやメディアなどの批判を無視することができなくなり、国防総省と退役軍人省は、93年に調査を行なった。このとき、調査対象としたのが健康の不調を訴えた兵士ではなく、劣化ウラン弾の微粉末に直接曝露した900人前後の中から僅か60人足らずを恣意的に選別し、その中に癌を発症したものがいなかったとして、国防総省は劣化ウラン弾による健康障害は認められないと発表した。このような調査では罹患兵士を納得させることができなかったため、95年には「大統領諮問委員会」が調査をするが、このときも劣化ウラン弾による疾患への因果関係を否定する。97年の「政府改革監督委員会」による調査では劣化ウラン弾による健康への影響を否定しなかったが、国防総省の1機関がこれを否定した。
さらに国防総省は99年には政府系の「ランド研究所」に化学・生物兵器を含むあらゆる疾患の可能性についての文献調査を委託するが、この調査で、ランド研究所が劣化ウラン弾の危険性を示す研究論文を除外していることが分かり、批判の対象となった。このように米政府機関は現実に帰還兵士が湾岸戦争症候群に苦しんでいるにもかかわらず、帰還兵士の訴求症状を無視したり、研究書を除外して巧妙に対象操作をすることによって湾岸戦争症候群は劣化ウラン弾によるものではないと否定するか曖昧な結論に導いてきた。症候群に罹患した従軍兵士たちがこのような結論に納得するはずもなく、訴訟を起こすに至っている。
イラクの兵士と住民の劣化ウランによる発症
多国籍軍兵士にさえ秘匿されたことから知識のないイラク側は防護措置を取ることもなく、劣化ウラン弾の粉塵に曝された兵士や住民が深刻な被害を受けることになった。イラク側の調査では、劣化ウラン弾に曝されたイラク軍兵士は91年の湾岸戦争から6年後の97年には、「リンパ腫」が8倍、「白血病」が4倍、「肺癌が」10倍の増加という被害が明らかとなった。北部のモスル市の4つの病院の住民の症例では、89年から90年と97年から98年の比較で「リンパ腫」が4倍、「肺癌」が5倍、「白血病」が1.8倍、「乳癌」が6倍、「皮膚癌」が11倍などとなっている。バスラ小児・産科病院の医師によると子どもの先天性障害児の誕生は3.4倍、悪性腫瘍は7倍となったという。
湾岸戦争とその後の経済制裁でイラクの子どもが10年間で50万人死亡したといわれているが、その中の相当数は劣化ウラン弾の影響だと考えられている。この実態を記者会見で問われたオルブライト米国務長官は、「大変難しい選択だと思うが、その価値はあったと思う」と肯定した。放射性物質による悪影響は、30数年を経たのちでも先天性異常児の誕生や白血病や癌や悪性腫瘍が多発しており、死亡していく子どもが後を絶たない。
NATO軍はボスニア紛争では劣化ウラン弾3トンを撃ち込む
NATO軍が94年から95年にかけて介入したボスニア内戦で実行した空爆では、サラエヴォを中心に戦闘爆撃機から25ミリ~30ミリの劣化ウラン機関砲弾1万800発・3トンを使用した。サラエヴォ近郊にあるハジチ村の戦車工場には米軍のA10戦闘機が2800発の劣化ウラン弾を撃ち込んだ。このため、ハジチ村住民を中心に癌患者が増加し、02年には口腔、消化器、皮膚、乳癌、泌尿器、脳などの癌発生率が2~10倍に激増した。癌性疾患で死亡した者は村民に限っても、ハジチ村からプラトゥナッツに移住した2000人の内1000人弱が死亡するという災厄をもたらしている。これとは別に、サラエヴォの「低レベル放射線キャンペーン」の調査によると、95年に比較して2000年には「乳癌」は12倍、「呼吸器系の癌」は4倍、「消化器系の癌」は5.5倍、「泌尿器癌」は3.5倍、その他の悪性腫瘍が増加したという。
ボスニア和平の「デイトン合意」後の95年11月にNATO軍はボスニアの和平を維持するために和平実施部隊・IFOR6万人を派遣したが、その派遣兵士の中から劣化ウラン弾の放射能の影響で白血病や癌を発症して死亡する者が出始めた。
ユーゴ・コソヴォ空爆では劣化ウラン弾10トンを使用
1999年3月に開始されたNATO軍によるユーゴ・コソヴォ空爆では、劣化ウラン弾をNATO軍発表で3万1000発、ユーゴ連邦側の発表では5万5000発、およそ10トンをコソヴォ自治州とセルビア共和国への爆撃に使用した。劣化ウラン弾による爆撃はユーゴ連邦の全土に及んだが、主としてコソヴォとアルバニア国境地帯とセルビアとの国境地帯が主な使用地域となっている。アルバニア国境地帯に撃ち込んだ劣化ウラン弾はバンカーバスターと見られるが、この国境地帯にはユーゴ連邦軍の地下式の軍事施設があり、その頑丈なコンクリート建造物の破壊度を試すために集中爆撃を行なったものといわれる。
NATO軍兵士にも白血病が発症
78日間に及んだユーゴ・コソヴォ空爆後にNATO軍はユーゴ連邦との停戦協定を締結し、平和維持部隊・KFORを編成してコソヴォ自治州に送り込んだ。このコソヴォ駐留のKFORの兵士の中からも、「バルカン症候群」といわれる白血病や癌などを発症する者が多数出ることになった。2001年初期の時点で、イタリア軍の兵士はバルカン症候群に240名がかかりその内7人が死亡。ベルギー兵は9名が癌に罹る。フランス兵は4名が白血病を発症。ポルトガル兵は4名が白血病を発症。フィンランド兵は2名が白血病を発症。スペイン軍の兵士は2名が白血病を発症。ドイツ兵は1人、チェコ兵は1人、ハンガリー兵は1人が悪性腫瘍を発症。オランダ兵も2名が罹患したためコソヴォ駐留から引き上げ、使用した衣類や車輌は持ち帰らずに処分すると発表した。その他、数百人が健康障害を訴えているが、NATO軍は劣化ウラン弾による疾患の因果関係を一切認めていない。各国はやむなく独自に医療費保障などの対応を余儀なくされている。米政府は頑なに劣化ウラン弾とバルカン症候群といわれた疾患との因果関係を否定し続けているが、英国は当初は否定していたものの、その後は劣化ウランの影響について渋々ながら認めるようになり、帰還兵士の健康調査を希望者に対して行なうようになっている。英国退役軍人会の推計では400人が症候群の症状を示して苦しんでいるという。EUは兵士に疾患が多発するに及び、2001年1月に劣化ウラン弾とバルカン症候群の因果関係の調査を実施すると発表した。各国のその後の経緯については明らかになっていない。
国連機関によるユーゴ連邦への調査
劣化ウラン弾が人体に健康被害を与える兵器であることからすれば、「世界保健機関・WHO」が率先して調査すべきものだが、国際原子力機関・IAEAとの間にWHOは独自に放射能関連の調査をしないという申し合わせがあるため、本格的な調査には踏み込めていない。しかし、強い要請を無視することができず、WHOは2001年に簡単な報告書を出している。それは「重大な環境への影響は確認できていない」というもので、劣化ウラン弾の影響を否定する無内容なものであった。一方、劣化ウランが環境汚染であることから国連環境計画・UNEPが調査に乗り出し、NATO軍に劣化ウラン弾を投下した地点などの情報公開を要求したがNATO軍はその情報の提供を渋った。
その後、アナン国連事務総長の強い要請で、ユーゴ・コソヴォ空爆が終息した1年後の2000年の夏にNATO軍はようやく投下地点が112ヵ所であるとの情報を提供した。UNEPはその情報を基に、2000年11月にコソヴォの調査に入った。そして、コソヴォ自治州の11ヵ所の地点の放射線量を測定して通常の100~200倍であることを確認し、土壌や水、植物を採取して各国の研究所に分析を依頼する。スイスの研究所はU236の検出を報告し、スウェーデンの研究所はプルトニウム239を検出したことで劣化ウラン弾が撃ち込まれたことを確認した。UNEPは2003年9月に報告書を公表しているが、放射線毒や化学毒の危険性については長々と説明を加えながら、コソヴォの実際の被害状況については触れることなく、汚染地域に入るに当たっては注意が必要であると当然すぎることを付け加えるなど、外部の圧力が推測される内容となった。
ユーゴ連邦当局はイラクの政府機関と異なり、劣化ウランによる健康障害を認識していた。そこでNATO軍に対して汚染の除去を要求したがNATOが取り合わないことから、セルビアの化学環境省環境保護局副局は2002年からセルビア共和国本土の劣化ウラン弾の除去作業を始めた。コソヴォ自治州の劣化ウラン弾による汚染地域はNATO軍支配地区となっているために、ユーゴ連邦当局が入れないことで立ち入り禁止区域のプレートが立てられているのみである。
アフガニスタン戦争とイラク戦争でも繰り返し劣化ウラン弾を使う
2001年に始められたアフガニスタン戦争では、劣化ウランで装甲した新型巡航ミサイルやバンカーバスター弾などが大量に使用され、600~1000トンを投下したといわれている。「ウラニウム・メディカル・リサーチ・センター・UMRC」が行なったカーブルやジャララバードなどでの現地調査によれば、住民の尿からは通常の4倍から20倍の高濃度のウランが検出されている。そして、住民の中に湾岸戦争の際の米軍兵士が罹患したと同様の症例が多数見出された。今後、住民の中に放射線障害による悪性腫瘍や癌が多発するものと見られる。
2003年の米・英・豪によるイラク侵略戦争では1700トン~2000トンもの膨大な劣化ウラン弾が使用されている。湾岸戦争とイラク侵略戦争と数度にわたって劣化ウラン弾を打ち込まれたイラクでは、死産および先天性障害児の出産、小児癌、白血病が多発している。2003年のイラク侵略戦争に従軍した米軍兵士の中からも、既に劣化ウラン弾の放射性粉塵による疾患が出ている。それが、91年の湾岸戦争時に投下された劣化ウラン弾の汚染によるものか、03年のイラク戦争で使用された劣化ウラン弾によるものかは必ずしも明らかではないが、米軍兵士の子どもに明らかな先天性障害児が誕生している。劣化ウラン弾の飛散した放射性微粉塵は、イラク住民だけでなく周辺国の住民にも被害を与えていることは疑いない。
米・有志連合軍はイラク戦争から派生したISとのシリア戦争で劣化ウラン弾を使用
米・英・豪有志連合軍によるイラク侵攻作戦後の失政で、イスラム教を信奉する人々がイラクとシリアにまたがるイスラム国ISを樹立するという事態が招来した。これに対して有志連合軍は、新たに「テロとの戦い」なる軍事行動を設定して空爆によるイラクのISをたたきつぶすとしてシリアにも空爆作戦を拡大し、ISに劣化ウラン弾5000発を浴びせた。
世界規模で飛散した劣化ウラン弾の微粒子が人体を害している
劣化ウラン弾は、主にA10戦闘機の30㎜機関砲弾のPGU-14およびGAU-8・30㎜機関砲、XM919の25ミリ機銃、戦車砲の105㎜砲のM735A1砲弾、120㎜砲のM829A、バンカーバスターGBU28の弾頭などに使われている。
現時点で劣化ウラン弾が実戦で使用された主な地域は、英軍によるフォークランド紛争、多国籍軍によるイラクでの湾岸戦争、NATO軍によるユーゴ連邦解体戦争、イスラエルのレバノン侵攻およびパレスチナのヨルダン川西岸およびガザ地区侵攻、米軍によるアフリカのソマリア、有志連合軍による中東のイラクおよび中央アジアのアフガニスタンなどが上げられる。
米国は諸国に劣化ウラン弾を輸出
米国は自国の装備にとどまらず、多くの国々に劣化ウラン弾を輸出している。劣化ウラン弾を所有している国は、英国、イスラエル、エジプト、オーストラリア、韓国、ギリシア、クウェート、サウジアラビア、タイ、台湾、トルコ、日本、ニュージランド、パキスタン、バーレーン、フランス、ヨルダンなどである。カナダ、ロシア、中国、スウェーデンなども独自に劣化ウラン弾を装備している。イラク、オマーン、アブダビ、アラブ首長国連邦も所有しているという情報もある。
劣化ウラン弾を所有している国の軍は、当然ながら訓練のための発射実験を行なっている。米国内では訓練場のあるヴァーモント州、ミズーリ州、カリフォルニア州、ネヴァダ州、インディアナ州、メリーランド州、アリゾナ州、フロリダ州、ニューメキシコ州のロスアラモス研究所などで機関砲や戦車砲での試験砲撃や射撃訓練を行なってきた。戦車砲による破壊実験では400mの範囲にウランの微粉末が飛散したといわれ、訓練場と周辺地域が汚染していることは疑いない。
海軍は訓練のために、プエルトリコのビエケス訓練場で発射実験を行なっていたが、現在はプエルトリコ政府の要請で停止した。イギリス軍はカンブリア州エスクミールズ、ソルウェイ湾、ドーセット州のルルワースなどで発射実験を行ない、ドイツ軍はニーダーザクセン地方、バイエルン地方のシュローベンハウゼンで発射実験を行なった。在日米軍は、沖縄の鳥島で劣化ウラン弾の射撃訓練を行なったことが問題視された。湾岸戦争時にはサウジアラビアで7000発もの大量の砲撃訓練が行なわれている。その他の劣化ウラン弾保有国も同様の射撃訓練を行なっているとの推察は可能である。
劣化ウランの事故による拡散
1985年に日航ジャンボ機ボーイング747が御巣鷹山に墜落したが、このときも平衡錘として使用された劣化ウランが海と墜落地点に散乱した。
1988年には米軍のA10攻撃機がドイツのレムシャイトに墜落し、1992年にはイスラエルの貨物機ボーイング747がオランダのアムステルダムに墜落した。ドイツのレムシャフトとオランダのアムステルダムで。飛散した劣化ウラン弾および劣化ウラン平衡錘による影響として周辺の住民に皮膚病、腎臓の機能障害、子どもの白血病、出生時の奇形が増加したという。
1991年の湾岸戦争後にクウェートのキャンプ・ドーハに設置した爆弾倉庫で火災が起こり、2日間燃え続けた際に劣化ウラン砲弾660発と劣化ウラン装甲を施したM1A1エイブラムス戦車4台が炎上して劣化ウランの微粉末を撒き散らした。この事故での兵士や周辺住民の被害は明らかにされていない。
劣化ウランは危険性を隠蔽するための詐称
劣化ウランという通称を広めたのは、恰もその毒性が弱まったかのように思わせるいわば詐称である。劣化して半減期が縮まるわけではないからだ。原子力発電から廃出された廃棄物の中には半減期が45億年のウラン238や半減期が7億年のウラン235および半減期が2万年のプルトニウム239など様々な放射性物質が含まれていることからそのままでは使用できないという意味で劣化と称したのであって危険性が減少したことは意味しない。劣化ウラン弾も一種の核兵器なのである。
核兵器は人類の愚かさの象徴
核兵器は人類が作り出した自らをも破滅させる最悪の無差別殺戮兵器、破壊兵器である。これで仮想敵国を脅す人類の知性・文明は称賛に値すると言えるのであろうか。
放射線の人体実験を繰り返した米国
米国はマンハッタン計画で原爆製造に乗り出したものの、放射性物質の人体への影響についてはほとんど無知といっていい状態にあった。
そこで、放射性物質の人体への影響調査に研究に着手する。そのやり方は無知とはいえかなり粗暴なやり方を採用する。研究の主な内容は、放射性物質の人体への直接注射、プルトニウムの飲用、放射線の人体への全身照射、放射能物質が漂う中への曝露など、異様とも言える実験が行なわれた。放射性物質の人体への直接注射は、原爆が未だ製造できるかどうか分からない段階で先行実験が行なわれた。1945年4月にプルトニウムを含むかなり高い濃度の溶液を本人の了解を得ることなく、疾病の改善のためと称して相次いで人体に注入した。
オッペンハイーマーの虚言
広島、長崎に原爆を投下したのち米軍は残留放射能の調査をした。米側の想定では残留放射能は存在しないはずであった。しかし、米側は9月初旬頃から広島・長崎の残留放射能を測定することになるが、責任者のファレル准将は調査団に「君たちの任務は広島と長崎に残留放射能がないことを証明することにある」と言い渡した。調査団は現地で高い残留放射能を検出するが、その測定値を秘匿するか廃棄した。そのため、残留放射能の実測値はほとんど残されていない。オッペンハイマーはこの事実について「放射性物質は爆発によって吹き飛び、地表に残留放射は存在しない」と虚言を弄した。その後GHQは原子爆弾による被害について箝口令を敷いた。そのため日米共にメディアは真実を伝えるという使命を行使せず原爆による無差別爆撃の被害が正しく伝えられないという様相となった。そのこともあって米国では人体実験が続けられた。
米国は1947年に原爆が投下された広島と長崎に、ABCCを設置して放射線の影響調査を始めた。1975年には組織換えをして広島、長崎に放射線影響研究所として罹患者の放射線影響調査が行なわれるようになる。しかし、ABCCは放射線の影響調査のみで治療が行なわれているわけではない。これも一種の人体実験に類する。
人体実験の継続
放射性物質の飲用研究は、広島、長崎に原爆が投下されたのちに子どもや妊婦に対して放射能を帯びた鉄分を含んだ溶液を飲料として飲ませということをした。子どもへの実験は、1946年に始められた。施設に収容されている子ども74名を対象にカルシウムなどの放射性物質を投与してその影響を調査した。子どもへの実験の人数は829名に及ぶがほとんどが癌にかかって死亡している。妊婦への実験も本人に放射性物質であることを告げることなく診療のためと称して飲ませている。
さらに1950年には何らかの疾患にかかっている患者に対し、治療と称して放射線の全身照射を行なっている。
1957年には「汚い爆弾」といわれる放射性物質「プルトニウム」を空中で爆発散布させるとそれを不破久下西部はどのような影響を受けるかというおぞましい実験も行なった。対象物はロバ、犬、羊、ネズミにとどまらず兵士を塹壕に群居させて被爆した際の影響調査の対象とした。
この放射線の照射実験は、1963年には131人の囚人に対してわずかばかりの報酬を餌に生殖器の睾丸に照射するということまで拡張した。
人体実験はエスカレートし、核戦争を想定して兵士を核実験の爆発現場の近くの塹壕に待機させた上で原子雲につっこませる「アトミック・ソルジャー」と言われる実験も繰り返された。1952年に行なわれたマーシャル諸島で行なわれた水爆実験では火球が消滅して雲になる瞬間に航空機4機を突っ込ませた。このうちの1機は操縦不能となって墜落している。さらに、実験用に浮かべられた艦船の上に爆発直後に乗船させるということまでしている。マーシャル諸島における実験は67回も行なわれたため、住民は放射線障害を受け居住不可能となり今も他の島への移住を余儀なくされている。
核兵器の爆発実験による放射能被害
核兵器の爆発実験は、世界各地でおよそ2000回超行なわれている。この実験による放射性物質は世界中にまき散らされた。米国はマーシャル諸島の核実験が経費がかかることから、ネヴァダ州の核実験場を開設した。この実験場では地上爆発実験を105発、地下核実験を828発行なっている。このように多用したことで、周辺の住民およそ2万人が癌で死亡しているといわれる。また核実験はユタ州などでも核実験を行なっているが、米政府が放射性物質の危険性を公知しなかったため、それを軽く見たスター俳優のジョン・ウエインが「征服者」のロケ地に敢えて選んだ。そのため、220人のスタッフと俳優のうち91人が癌で死亡するという惨事を招いた。
ソ連における核実験
原爆による放射線障害影響調査は米国のみで行われたわけではない。ソ連はカザフスタンのセミパラチンスクおよびノヴァヤゼムリャ島を核実験場として使用し、715回の爆発実験を行なっている。ソ連当局は軍事機密として風下住民は放射能の影響はないと住民に説明され、実験時に避難することも敢えてさせないという形で行なわれた。住民に知らせずに行ったために住民はさまざまな癌、白血病、奇形児や死産の発生などおよそ150万人が被害を受けたといわれる。多くの住民が被爆して癌に罹患したため住民の多くは60歳前後で死亡しているという。
「人新世」とはプルトニウムの拡散を指す
「人新世」という言葉が膾炙されるようになっているが、地層を測定すると1950年ごろから「プルトニウム」の含有量が増大しているという。すなわち「人新世」の名称を充当する地層年代として1950年があてられるほど全地球的に「プルトニウム」が存在しているということが明らかになっている。これは人類の愚かさを表すが、必然的に癌を発症する人々が増大している。
世界の癌発生率の増加への影響も
このように劣化ウラン弾の微粒子は戦争や訓練や事故によって世界規模で拡散されており、微粒子を吸引することによる悪性腫瘍や癌に罹患する危険性は増大している。現在、世界規模で癌の発生率が増大しているが、この劣化ウラン弾の微粒子の影響も否定できない。1996年、国連人権委員会小委員会は、劣化ウラン弾は放射性核兵器であり、この非人道的な核兵器の製造と拡散の抑制を求める決議を採択したが、米英などが反対しているため実現は困難視されている。
U238の半減期は45億年であり、影響を与えなくなる期間を10倍だとすると、時空を超えて放射能を有し続けることになる。それを兵器として使用し、世界の環境の中に撒き散らすことが如何なる意味を持つかは明白である。
核兵器の事故
米国は、核兵器を搭載した爆撃機や潜水艦を常時就航させているために、当然ながら事故は起こる。1961年には水爆を搭載したB52爆撃機がノースカロライナ州に墜落し、水爆2個を落下させた。安全装置の幾つかは破壊されたが奇跡的に核爆発はしなかった。1966年にはスペインのパロマレスでB52爆撃機と空中給油機が衝突して水爆4個を落とした。3個は地上に落ちたが、核爆発は免れた。しかし、落下地周辺に放射性物資がまき散らされ、その地域は使用不能に陥った。海上に落ちた1発は探し出すことができず、そのまま海中に沈んでいる。1968年には、グリーンランドのチューレ空軍基地で起こった。水爆4個を搭載したB52爆撃機が墜落した。幸い水爆の爆発は起こらなかったものの弾頭部が破裂し、膨大な放射性物質をまき散らした。
原子力発電所の事故
劣化ウラン弾の劣化ウランを生成しているのは主として原子力発電所および核兵器製造である。その原子力発電所は運転の過程で事故を起こし、放射能物質をまき散らしている。現在までにレベル5以上の事故は8回起こされている。その中で良く知られているのは、1979年に起こされた「米スルーマイル島の原子力発電所事故・レベル5」と、1986年に起こされた「ソ連のチェルノブイリ原発事故・レベル7」および2011年に起こされた「福島第一原発事故・レベル7」の三つの事故である。この中でもっとも放射能汚染が激しかったのはチェルノブイリ発電所事故で、処理作業に係わった人たちなど数万人が放射線を浴びて死亡したといわれる。そして、半径30キロ以内の地域の居住が禁止された。この三つの原発事故でもっとも無責任さが問われるのは福島第一原発事故である。すでに、レベル5以上の事故が7回も起こされたことからすれば事故への対処を行なわなければならなかったのだが、日本の原発は安全だと言いつのるのみで何らの対処も行なわなかった。そのために大事故に繋がった典型的な人災である。しかも、原発事故の被害を小さく見せるために、小児癌の発生をスクリーニングの結果だとして認定してない。
核兵器不拡散条約・NPTの欺瞞
1970年3月、核兵器不拡散条約・NPTが発効した。目的は、核兵器の所有を制限するために、安保理常任理事国の米・英・仏・中・露の5ヵ国を「核兵器保有国」と定め、それ以外の国を「非核兵器国」として核兵器の拡散防止を図るというものである。さらに、核兵器保有国も核軍縮を目指すということで核兵器の破棄も行なわれた。
しかし、まもなくこの条約の核兵器保有国優先の偏頗性による欠陥が明らかとなる。インドは1974年に核実験を行ない、イスラエルは南アフリカと共同で1979年にインド洋で密かに核実験を行なって保有国となった。さらにパキスタンが1998年には核実験を行ない、北朝鮮は2007年に第1回の核爆発実験を行使して以来何度か繰り返している。この結果、核兵器の保有国は9ヵ国となったからである。
中距離核戦力全廃条約・INF
1987年12月にゴルバチョフ・ソ連大統領とレーガン米大統領ワシントンで中距離核戦力全廃条約に調印した。この条約は翌1988年5月に米上院で批准されたことで発効した。概要は「射程500km~5500km間での核弾頭および通常弾頭を搭載した地上発射型の弾道ミサイルと巡航ミサイルを廃棄すること」というものである。この条約に基づき、1991年6月までにおよそ2700基の中・短距離ミサイルが破壊された。この進展に世界は驚かされた。レーガン米大統領は就任するとソ連を「悪の帝国」と非難してソ連との間のデタントを否定していたからである。
このINF条約の締結により、核兵器を廃絶する方向に向かうかと思われたが、そうはならなかった。条約はNATOを含むとはいえ米・ソの二国間条約であったため、中国の核ミサイル開発は含まれていなかった。
ウクライナ政変は米国の誘導による
2014年にウクライナ政変が起こされる。この「マイダン革命」といわれる政変には米国が濃厚に絡んでいた。ネオコンのヴィクトリア・ヌーランド国務次官補とパイアット駐ウクライナ米大使がヤヌコヴィチ・ウクライナ大統領の後継者についての電話録音が暴露されたことで米国の関与が広く知られることになった。また、オバマ政権の副大統領だったバイデンはヤヌコヴィチ大統領に繁く電話をかけ「ウクライナにお前の居場所はない。モスクワに帰れ」と脅迫をしていた。ヤヌコヴィチは脅迫に屈して亡命した。
この動向を注視していたプーチン露大統領は、ウクライナがNATOに加盟することになればクリミアのセヴァストポリ特別市に租借している軍港から黒海艦隊が排除されると即断した。そしてクリミアにロシア語話者が多いことを利用して形ばかりの住民投票を実施して4月にはロシアに強制併合をした。これに対して西側諸国はロシアに経済制裁を科すとともにG8から追放する。
一方、ウクライナ東部のドンバス地方の2州ではマイダン革命を見て、ロシア語話者の急進派たちは4月に「ルガンスク人民共和国」と「ドネツク人民共和国」を樹立する。この共和国を樹立した急進派たちは、ウクライナ連邦を構成するかロシアに併合するかで揺れ動いていた。しかし、ウクライナ政府は連邦制を拒否する。プーチン露大統領も急進派を抱え込むリスクを考慮して併合を拒否した。この最中の5月にウクライナ政府はドネツク空港を爆撃した。これがドンバス2地方とウクライナ政府との対立を決定的なものにした。
NATOはウクライナに特殊部隊を送り込んで訓練を実施
NATO諸国はマイダン革命後の2015年頃から特殊部隊をウクライナに送り込んで訓練を始めた。これも秘密裏に行なわれたのではなく、テレビの映像でも流されたのでロシアにも認知させるつもりだったようだ。さらにバイデン米副大統領はポロシェンコ・ウクライナ大統領に、憲法を改定してEU加盟とNATO加盟を書き込めと要請していた。ポロシェンコはこれに応じて2019年2月に憲法を改定し、EU加盟とNATO加盟を義務化する条項を付け加える。
ポロシェンコの後を継いだゼレンスキー・ウクライナ大統領は当初はウクライナ東部ドンバス地方の紛争を政治的に解決すると公約していた。しかし、周辺に脅されたのであろう次第に強行姿勢に転換する。そして、NATOとともに黒海で軍事演習をおこなう。さらに、米国を訪問してNATO加盟の道筋をつけてほしいと要請する。
ロシアとNATOおよびウクライナとの対立が緊張状態にある中、解決策を模索するために21年12月に米・ロ会談が持たれる。ロシアは米国側に対してNATOの東方不拡大を求めるが、米側はこれを拒否した。
ロシアがNATOの東方拡大に危機感を抱きウクライナに侵攻
スイスの諜報関係者ジャック・ボーによると、22年2月16日にウクライナ軍はドンバス2州に激しい攻撃を仕掛けた。緊迫する中でのウクライナの挑発である。これが、ウクライナ単独の判断で行なわれたとは考えにくい。おそらくNATO諸国の助言か承認を得ての作戦であろう。
プーチン露大統領はこれを見て2月21日に躊躇っていたドンバス2州の「人民共和国」を併合する大統領令に署名する。そしてロシアは2022年2月24日に「特別軍事作戦」なる作戦名をつけてウクライナへの軍事侵攻を敢行した。そして、核兵器の使用をも辞さないとほのめかしたのである。戦争ではない「作戦」との名称であれ、他国に軍事侵攻をするのは国際法違反であり、蛮行である。しかも核兵器の使用も辞さないとの発言は世界に対する脅迫であり、地球絶滅を弄んでいるように見える。
ロシアはキエフを臨む北方、東部ドンバス、南部クリミアの3方から侵攻したが、北方軍はウクライナの見事な迎撃作戦によって大損害を受けて撤退した。もちろんこのウクライナの迎撃作戦をウクライナ軍のみが立案したのではない。作戦指導はNATO諸国が行なっている。
ロシアのウクライナ侵攻は国際法違反の愚行
NATO諸国はウクライナへの軍事支援の兵器の格を徐々に拡大し、独・仏・英・米のNATO主要国が自国製の戦車を提供するまでになる。その中でジョンソン首相は22年4月に突如ウクライナを訪問して軍事援助を強めるためと装いながら、停戦交渉を行なわないようゼレンスキー・ウクライナ大統領に釘を挿した。次いでスナク英首相は提供する「チャレンジャー2」戦車の弾丸として劣化ウラン弾を付与させると表明する。米国も劣化ウラン弾をウクライナに供与し、米政府高官は臆面もなく「劣化ウラン弾は人体に影響はない」と述べた。湾岸戦争ではイラクの子ども50万人が死亡しているがこのほとんどは劣化ウラン弾によるものと言われている。そればかりか米国の兵員も「湾岸戦争症候群」で劣化ウランによる障害を経験している。にもかかわらず平然と劣化ウランは人体に悪影響を与えないと表明する。これが数々の障害をもたらした劣化ウランに係わる安全保障関係者の認識なのである。
核兵器禁止条約が成立する
核兵器を所有している国が増加すれば、使用する可能性は増大する。この政治環境に危機感を抱いた国際社会は永い活動を経て2017年7月7日に国連総会で核兵器禁止条約・TPNWが賛成多数で採択されるまでにこぎ着けた。この条約を成立に導いたのは主として、国際的なNGOである。その故もあって「核兵器廃絶国際キャンペーン・ICAN」なるNGOが2017年度のノーベル平和賞に選ばれた。それから3年後の2020年10月に条約が成立する前提としての50ヵ国が批准し、90日後の2021年1月22日に条約が発効した。しかし、核兵器保有国はいずれも現実的ではないとしてこの条約を無視した。唯一の被爆国である日本もこれに同調して批准しようとしていない。核兵器保有国は、無差別な破壊と殺戮をもたらす核兵器の使用権限を放棄するつもりがないことを露骨に示したのである。この様態を見るに核兵器保有9ヵ国には「人道・人倫」という文言を使用する資格はない。
核禁条約の締約国会議が開かれる
ロシアがウクライナに侵攻して軍事作戦が継続する中、核禁条約第1回締約国会議が2022年6月に開かれた。この会議には締約国66ヵ国に加え、オブザーバーとして14ヵ国、合わせて80ヵ国・地域が参加した。NATO加盟国のノルウェー、オランダ、ドイツ、ベルギーがオブザーバーとして参加しているものの、原爆を使用した米国と被爆国の日本は参加していない。締約国会議は「ウィーン宣言」を採択して閉幕したが、宣言には「9ヵ国が依然として1万3000発の核兵器を保有していることおよび威嚇の根拠を並べ立てた安全保障政策に対し、強い懸念を抱いている。これらの核兵器の多くは一触即発の警戒態勢にあり、数分以内に発射可能な状態にある」と警告している。
ウクライナ戦争での劣化ウラン弾使用の可能性
2024年の時点でウクライナの戦場で劣化ウラン弾が使用されたとの情報はないが、映像から推察するとそれらしい砲弾を装填していることから使用している可能性は否定できない。もしNATO側が使用すればロシアも当然使用するであろうから、ウクライナの原野と空中は劣化ウランの微粉末で汚染されることになる。
人類の知性の到達点
ロシアのウクライナ軍事侵攻は2024年半ばの時点で破壊と殺戮が継続しているが、成り行きによっては核兵器が使われる事態が出来する可能性は否定できない。使用されなかったとしても核兵器の所有を企図する国は増大するだろう。
全ての生き物を手のひらの上で弄ぶ思考が人類の理性の到達点なのか
核戦争になる可能性が高いとはいえないが、核兵器を使用すれば人々への放射能汚染に留まらず、
地球の全生物を破滅に導くことになる。地球上の生命は精妙な共生の上に進化してきている。その中
で人類はいささかの知恵を獲得して文明を謳歌してきたものの、深奥の知性は進化しなかったようだ。
ラトガース大の研究チームによると、米ロ間で本格的な核戦争が起きると、被爆による即死が3.6億人、核の冬が襲来する2年後には人類の66%に当たる53億人が死亡するという。核兵器禁止条約に背を向ける安全保障関係者は何を護ろうと考えているのだろうか。
核兵器所有国の認識
核兵器を所有している国および共有している国の認識がどの程度のものかをあからさまにする出来事が2024年のナガサキの追悼平和式典を巡って起こされた。長崎市がウクライナ戦争を起こしているロシアとベラルーシを式典に招待しないと同じにパレスチナ・ガザ戦争を起こしているイスラエルを招待しなかったことに憤ったエマニュエル駐日米大使がG7およびEU諸国に働きかけて不参加を表明したのである。この行為を見ると彼らが核兵器の使用を想定していることが分かる。式典をボイコットした国々と機関は核兵器禁止条約を真摯に受け取っていないのだ。
被団協へのノーベル平和賞の授与の意図
ノルウェーのノーベル平和賞委員会は2024年のノーベル平和賞の授与対象に日本原水爆被害者団体協議会(被団協)を選んだ。この選定の背景には現実に起こっているウクライナ戦争およびパレスチナ・ガザ戦争があると言われている。どちらも一方が核兵器を所有しており、場合によっては使用する可能性があると見られているからである。
被団協は1954年のビキニ環礁における核実験の死の灰を被爆して死傷者が出たことをきっかけに、56年に長崎で結成された。被団協の活動目的は「人類の危機を救おうという決意を誓い合った」という壮大なものであり、国連を始めとして世界の各地を訪問して被爆の苦しみを基調として核廃絶を訴えてきた。
この日本被団協への平和賞授与で世界の趨勢は核兵器廃絶へと促されるであろうかといえば、残念ながら人類の感性も知性もそれほど鋭くはない。現にマクロン仏大統領は、自国が保有する核兵器をEU諸国の抑止力に使用することを提言している。安全保障関係者は愚昧なのである。
<参照;ラムゼイ・クラーク、ユーゴ・コソヴォ空爆、NATO軍の対応、米国の対応>
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焼夷弾・ボール爆弾・クラスター爆弾・地雷・グラファイト爆弾
「クラスター爆弾」の原型は、第2次大戦中に米軍が使用した焼夷弾に遡るが、現在の主要なクラスター爆弾は親爆弾の中に数百の子爆弾を入れ込み、広い範囲に撒布する対人殺傷・対物破壊・対装甲・対戦車地雷など多目的兵器となっている。
クラスター爆弾は子爆弾の内の1、2割程度が不発弾として残るように設計してあり、爆撃後の市街地や野原、耕地に足を踏み入れた者を殺傷するようにしてある。しかも、子どもの目に付くような色と形に工夫がしてあり、玩具やペンシル型をしたものもあるために、戦争終結後でも拾ったり触ったりした子どもが死傷するということが頻発している。ベトナム戦争ではボール爆弾とも呼ばれていたが、米軍がベトナムやラオスやカンボジアに大量に投下したために、今なお利用できない地域が発生して経済発展を阻害している。現在、NGOなどが除去に携わっているが、この除去には100年から200年はかかるといわれる。
その後も米軍は湾岸戦争、アフガニスタン戦争、そしてイラク戦争で厖大な量を使用した。ハンディキャップ・インタナショナルの2007年の調査によると、クラスター爆弾が投下されて被害を最も受けた国の順位は、1,ラオス、2,イラク、3,ベトナム、4,アフガニスタン、5,チェチェン、6,レバノン、7,エチオピア、8,クロアチア、9,クウェート、10,コソヴォ、11,カンボジアである。
コソヴォ紛争時の難民はクラスター爆弾を避けるため
ユーゴ連邦解体戦争では、1994年から95年にかけてのボスニア内戦でもNATO軍がクラスター爆弾を使用した。1999年のユーゴ・コソヴォ空爆では、親爆弾1200発、子爆弾に換算すると29万発が投下され、その内3万発が不発弾となった。ユーゴ・コソヴォ空爆時に多数の住民が避難民となってコソヴォから脱出した主な理由に、29万発もの大量のクラスター爆弾投下の被害を避けたことがあげられる。99年のユーゴ・コソヴォ空爆では、通常の殺傷用の子爆弾以外に、炭素繊維の紐状のものが飛び出して電力の送電網を使用不能にする「グラファイト爆弾」というものを多数投下し、インフラを破壊して市民の生活を困窮に陥れた。
非人道的なクラスター爆弾
クラスター爆弾は、世界の34ヵ国が生産し、76ヵ国が所有し、21ヵ国が使用して被害を与えたといわれる。1960年代から70年にかけてのベトナム戦争の米軍、1991年に始められた湾岸戦争における多国籍軍、1994年から95年のボスニア内戦のNATO軍、1999年の「ユーゴ・コソヴォ空爆」のNATO軍、2001年から2021年のアフガニスタン戦争の米英軍、および2003年から10年のイラク戦争の米英豪有志連合軍、2006年のレバノンに侵攻したイスラエル軍、2008年のグルジア紛争などで大量に使用された。NGOの「ハンディキャップ・インタナショナル」によるとクラスター爆弾による被害者は98%が民間人であるという。核爆弾、劣化ウラン弾とともにクラスター爆弾は、非人道兵器としてたびたび国連でも使用禁止に向けた協議がなされたが、米・英・日・露・中・イスラエルなどが反対するために、使用禁止に至らせるのは困難と思われた。
クラスター爆弾禁止への努力
しかし、ベルギーが2006年にクラスター爆弾を禁止すると表明するなど、独自に禁止を模索する国々が出てきた。07年2月、ノルウェーのオスロで開かれたクラスター爆弾を禁止するための国際会議に49ヵ国が参加し、46ヵ国が賛成して「オスロ宣言」が採択された。この宣言では、2008年までに法的拘束力のある国際文書を成立させるとし、「1,クラスター爆弾の製造、移転、貯蔵、使用を禁止。2,汚染地域における撤去、リスク教育、禁止された爆弾の備蓄、破棄を保証する協力と援助の体制を確立する」というものである。ノルウェー、オーストリア、スイスはベルギーに続いて07年の会議の前後に使用を凍結すると発表し、イギリスは自爆機能の付いたものにすべて転換すると決定した。この2007年のオスロ会議にはアメリカ、ロシア、中国、イスラエルは参加せず、日本・ポーランド・ルーマニアは参加したもののオスロ宣言への不支持を表明した。日本の不支持は独自の判断で行なったというより、米国の対応に忖度したものだ。
クラスター爆弾制限条約が成立
2007年5月、ペルーのリマでクラスター爆弾に関する第2回目の会議が68ヵ国の参加を見て開かれた。しかし、この会議ではオスロ宣言を基礎として行なわれたことから条約の合意は得られなかった。次いで、2008年5月にアイルランドのダブリンで開かれたクラスター爆弾の製造・貯蔵を制限する国際条約会議が開かれ、所有は禁止しないという条件付きとしてのクラスター爆弾に関する条約に111ヵ国が合意した。
条約の主な内容は、「1,10個未満の爆発性子爆弾しか含まないこと。2,それぞれの爆発性子爆弾の重量は、4キロ以上であること。3,単一の目標を察知して攻撃できるように設計されていること。4,電気式の自己破壊装置を備えていること。5,電気式の自己不活性機能を備えていること。6,条件に満たないクラスター爆弾は8年以内に廃棄すること」などの妥協条件付きでの条約が成立した。ただし、条約締結合意国際会議に、クラスター爆弾の大量保有国である米・露・中・韓・北朝鮮・イスラエルは参加していない。1年余を経た2009年7月の段階で、署名した国は98ヵ国、批准をすませた国は14ヵ国に留まっている。条約は30ヵ国が批准をしなければ発効しないが、2010年2月にようやく30ヵ国が批准し、6ヵ月後の2010年8月1日に条約は発効した。2013年9月にクラスター爆弾に関する拡大会議がザンビアのルサカで開かれ、署名国が111ヵ国、批准国が84ヵ国までに達している。この条約を成立させるに当たり、NGOの「クラスター爆弾連合」が大きな役割を果たしてきた。
ウクライナ戦争に米国はクラスター爆弾を供与
2024年2月24日、ロシアが「特別軍事作戦」なる名称を付けたウクライナへの軍事進攻を開始した。米国はウクライナに対戦車ミサイル「ジャベリン、対ヘリミサイル「スティンガー」、戦車「エイブラムス」を供与するとともに劣化ウラン弾およびクラスター爆弾をも供与した。
<参照;ユーゴ・コソヴォ空爆、アライド・フォース作戦、劣化ウラン弾>
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